夫に向ける息子の微笑みはとても綺麗だけれど作り物めいたように見えるのは昔、王女として過ごした部屋で鏡相手に向けた自分のと同じ笑みをそこに見たからかもしれない。
ルークはこのように微笑むような子であっただろうかと思い返そうとしてあまり覚えていないことに気がついた。さらわれる前のルークは夫譲りな生真面目な顔をして微笑むことなど滅多になかったように記憶している。
帰ってきて記憶を失った息子はルークもルウどちらもよく笑顔を見せ、特に精神が幼いルウは感情のおもむくままに表情を変化させて見ていて微笑ましい気持ちになる。
そんなルウをルークは好いているようで肉体は同じでも仲のよい兄弟のように接しており、その様子を見るたびに私が身体がもう少し丈夫であればルークの弟か妹を産めただろうにと残念に思う……いいえ、今はルークの兄弟のことではなく夫に向ける息子の微笑みのほうが問題だ。今のところは表面上の問題はない。そう問題は夫と息子の関係が悪化しているのに気付かなかった私にもあるのだろう。
日々忙しい夫と素直に勉学と稽古に励む優秀な息子はどちらも私語もなく食事をしてる。マナーとしては素晴らしいし、正しいことだけれど家族としての姿としては正しいとは思えなかった。夫は息子を見ず、息子もまた夫を見ない。家族であるはずなのにという寂しい気持ちが胸を締め付ければルークの視線が私へと向けられる。
「母上、ご気分が悪いのですか?」
私の気持ちの変化に気付いて体調が悪くなったのかと心配してくれたのだろう。
「大丈夫ですよ。ルーク」
「そうですか。要らぬ一言を申し訳ありません」
「いいえ、私を心配してくれたのでしょう?ありがとう」
体調は悪くはないのだと謝罪する息子が気に止まないように微笑んで礼をのべる。ルークの言葉でこちらを見ていた夫へも微笑みを向け、大丈夫だという意思表示に納得してくれたのか二人の食事が再開される。けれど、ルークの視線がほんの少し夫へと向けられた時の眼差しに私は不安が増す。王族や貴族であれば心にもない笑みを、作り笑いを浮かべることも少なくないけれどそれを私の息子が夫へと向けるとは思ってもいなかった。
ああ、何よりも夫へと向けられたルークの眼差しは冷たい光を帯びて、まるで憎々しいものを見るかのようだ。改めて見る息子は外見も性格も夫によく似ていると考えていたがルークの瞳の色は夫よりも薄い色をしていて私の瞳とよく似ているように見えるし、髪の色も違っているように感じた。かつての息子の髪の色はもっと深い紅のような色で、瞳の色も今よりも濃い緑であったはずだ。一つ一つはただの変化で済ませてもよいはずのことが集まり、明確な答えを出そうとしている。
己が考え出したあまりにも恐ろしすぎる想像に息が出来ないほどに苦しくなる。
「母上っ!」
「シュザンヌ!」
私を呼んで心配そうに駆け近づく二人の姿を視界に入れながらも息苦しくて呼吸をすると胸に痛みが走る。
夫が主治医を呼ぶようにと命じている声も聞こえるがこの息苦しさは発作のようなものだ。速く浅くなった呼吸を戻そうとしながら私の背を撫でる手に気付く。
「母上、私が傍に居ます」
背中を撫でる手はとても優しい。
「ルー…ク……」
私を心配してくれるこの子の眼差しが不安げに揺れ、その瞳にうながされるように手を伸ばせば背中を撫でてはいない左手で握り返してくれる。
繋がるその手から感じる温もりに私の呼吸が徐々に落ち着いていくと室内の緊張した空気が緩む。
「もう……大丈夫ですよ……」
「母上、お部屋までお送りします」
私の言葉に力を少し強めた繋がっているその手が微かに震えていることに気がついた。
「ルーク」
「シュザンヌ、ルークの言うとおり部屋に戻りなさい。ルーク、シュザンヌを送り届けるのなら長いはせぬように」
「はい。父上」
感情を私のせいで乱してしまった息子を慰めたくて言葉を紡ごうとして夫の言葉にルークはその動揺を綺麗に消して、まるでよく出来た人形のように感情を感じさせない透明なその表情を見て、胸が痛くなったが先程のように発作を起こすわけにはいかないと深呼吸をして心を落ち着かせる。
「お願いしますね。ルーク」
「はい」
ルークの手を借りて立ち上がり自室へと戻るために歩き出す。すぐに治まったとはいえ身体に負担が掛かったようで話しながら戻るのは無理だと判断して無言のまま部屋へと戻った。
報告がいっていたようで私付きのメイド達が居たが彼女達を下がらせ、横たわるのに彼女達の手を借りずにルークの手を借りる。嫌な顔一つせずに手を貸してくれるその様子に先程の私の想像は間違っていると思いたかったが、思い返せば誘拐され戻ってきた息子は一度も己がルークだと名乗ったことはなく、父親であるはずの夫に対して良い感情を懐いていないようだ。誘拐される前のあの子は夫のことを尊敬している様子だったのと全く違うその感情はこの屋敷に居る記憶を失ってしまっているから変わってしまったのだと思えば目を瞑っていることも出来るだろう。けれど、この子は一度も己が記憶を失っていると言ったこともなければ、自らをルークだと認めたこともない。
私を知らないと言い、記憶していないと言った。それは私だけではなくこの屋敷に関わる全てがそうであったし、幼馴染であり婚約者である姫についてもその態度に変化はなかった。それを私達は記憶喪失であると判断したけれど、間違いであったとしたら私はどうすればよいのだろう。
顔立ちは瓜二つ、髪と瞳の色は少し違っている。彼が私のルークであると確かめるために出来ることは一つだけ。
「それでは」
「待って、手を繋いでほしいの……少しの間だけでいいわ」
手馴れた様子でベットを整えるとすぐに離れていこうとした息子を呼び止めて右手を伸ばす。夫の一言でためらうだろうと少しの間だけと言葉を継ぎ足せば迷いながらも頷いて手を握ってくれる。護身術として稽古をしているという息子の手は私の手よりも固いけれど夫の手よりは柔らかい。
「ねぇ、ルーク」
「はい」
「……貴方には私以外の母親の記憶があるのかしら?」
素直に聞くことだけが私に出来る唯一の出来ること、それを実行し私は目の前に居る息子の反応を見守る。
「っ!」
ほんの一瞬の動揺、それだけで充分だった。それだけで私の心に真実の欠片がはまり込んだ。目の前に居る子どもに私以外の母親が居るというのならばこの子は私が産んだ我が子ではないのだと理解できてしまった。
「貴方は何度も知らないとは答えたけれど、一度も記憶がないとは答えたことはなかったわ……その通りだったのね」
「はは……」
母上と呼んでもいいのかためらった子どもの手を繋いでいる手とは反対の手で包む。
「貴方が私を母と呼んでくれるのならば、そう呼んで欲しいの」
「……母上」
優しい子。偽りの名を押し付けられ、偽りの身分に囚われたのにそれを私達にぶつけることもなく偽りの名を偽りの生き方をしていた子ども。王族の証とも言われているその髪と瞳を持つこの子はきっと王族としての血が薄くはないはずなのに私が知らなかったということは誕生を祝福されなかった子どもだからではないだろうか。もしくは預言によって隠匿されていたのかもしれない。そして、ルークが消えたことによって彼はここに来ることになったのだと考えれば辻褄はあう。
そうであるとするのならば私が産んだ我が子はどこに居るのだろう?不安に押しつぶされそうな胸のうちを隠して私は目の前の息子の手を強く握る。私の息子として今、ここに居るこの子もまた私の子どもだ。お腹を痛めて産んだわけではなくても私を母と呼び、気遣ってくれたこの子は確かに私の子。この子を産んだ者やこの子を育てた者には敵わないかもしれないけれど、この屋敷でこの子を護ってあげられる母親は今は私だけ。
「貴方の名を教えてくれるかしら?二人きりの時は貴方の名を呼びたいの」
「私は……です。母上……」
大粒の涙が頬を伝って零れ落ちる。、少し聞き慣れない音は古代イスパニア語で『人』を意味する言葉だ。
その名は私の息子のルークのように預言に刻まれていたのだろうか?それとも、ルークへと他人へと人生を塗り替えられるこの子に誰かが人だと伝えたかったがためにつけた名前であったのだろうか?
「、良い名前ね……私には子どもが三人もいるのね。ルーク、、ルウ、三人とも私の可愛い息子」
「私は……いえ、ありがとうございます」
私の言葉にが涙を止めたが何だか複雑そうな表情をしているのは私の子どもであることは嫌なのだろうかと不安になる。けれど、それも仕方が無いのかもしれない。今までの人生を捨てさせられ、別の生き方を強制させられているのであれば私や夫を両親と慕うことは難しいだろう。
「貴方がここに居るのは預言のため?」
「……そのようなものです」
の返答はよくわからなかったがそれ以上のことを私に言う気は無いようだ。
夫と同じように重要なことを私には教えてくれないのかという悔しい気持ちが起きるが、私を信頼するようにとは言えなかった。
瓜二つではあっても差異があるこの子を息子だと今日まで思い込んでいた私を信頼してもらうにはもう少し時間が必要だろう。これからを共に過ごすのだからきっといつかは信頼してくれるはず……夫は知っているのだろうか?戻ってきた息子が失った息子ではないことに。
預言に遵うことが当たり前の今の風潮に染まりきったキムラスカ、もしかしたら夫も兄もこのことを知っているのではないだろうか?と想像してぞっとした。。預言であるのなら兄は甥を見捨てるだろうし、国に王に忠実な夫は苦悩したとしても預言のとおりにするだろうと彼らの愛情というものは預言によってなかったことになるようなものだという自らの想像に否定できない自分に最も背筋が凍る思いだった
「ルークはどこにいるのかしら?」
言うつもりのなかった想いが漏れた。にとって身代わりとされている人物であるルークはよい印象はないだろうと考えたのと要らぬ子だとこの子に感じさせたりしたくはなかったのに。リンはルークではないと知ったばかりで動揺していたとしても母親として相応しい行動ではない。もっと気丈にならなければと自らを心の中で叱咤していると私の言葉に考えていた様子のルークが口を開き。
「……恐らくですが、ダアトだと思います」
「ダアト?」
「はい。私を発見したと報告したのはローレライ教団の神託の盾騎士団の方と聞いております」
「ええ」
そう私も聞いていたので頷く。
「本来、ローレライ教団の神託の盾はダアトを護るためにあるはずのものです。誘拐されたのが王族とはいえどその軍事力の象徴である信託の盾騎士団を動かし捜索するのは少しばかりおかしなことではないかと私は思います」
「それはルークに剣の稽古をつけているヴァン・グランツ謡将が……」
己でそう言ってヴァン・グランツ謡将がルークの剣の師となったのは夫が頼んだことではなく話の流れでそうなったのだと聞いたことを思い出して言葉を止めた。
将来、キムラスカの王となる息子がランバルディア流ではなく他の流派を学ぶことに疑問が浮かんだものの夫から彼の剣の腕前の良さの話を聞き、ローレライ教団との友好の一つの証ともなると言われて納得したが、彼はあくまでも個人的なこととしてルークの剣術指南役となったはずだ。裏にローレライ教団へのファブレ公爵家からの寄付の流れを作り出そうともあくまでも稽古はグランツ謡将の個人的なものだ。
息子を探してくれたことに感謝し、彼が行った問題行為に目を向けていなかった己の浅はかさに気付かされる。ローレライ教団の神託の盾騎士団を統べる主席総長。彼がルークを発見したということで信頼していた。
失った息子を取り戻せたのだと盲目に信じた己が愚かではあったが、ローレライ教団の主席総長が間違うなどと思いもしなかった。いいえ、間違いではないのだろう。彼らにとって今ここに居るこの子が『ルーク』であったのだ。
「彼が貴方を『ルーク』としたのね」
「はい。母上、『ルーク』の陽だまりを……居場所を奪って申し訳ありません」
彼はルークに信頼されていた。しっかりはしていてもまだ子どもでしかなかった息子は言葉巧みに連れ出されたのだろうと想像し、私から息子を奪っただろう男への憎しみが私の中に生まれた。
「貴方のせいではないわ。、貴方を『ルーク』としたのは私や周囲の者よ」
「いいえ、それを強く否定しなかったのは私自身です」
どちらの言葉もまた真実。の言葉を否定したいのに己の中にもどうして言わなかったのだと責める声はある。
「でも、母上。ルウは違います。ルウは何も知りません」
嫌わないで欲しいのだとその揺れる瞳と強く握る手が必死に訴えている。この子は己の中に居るルウを護りたいから否定しなかったのだ。
否定し、拒絶したとしても周囲はそれを受け入れなかっただろうし、そうして起きる周囲との摩擦はこの子自身だけでなくルウをも傷つけただろうと容易に想像できた。まだ幼い精神のルウの心は容易く傷つけられ、素直な心から血を流すことになっただろう。
「大丈夫、私はルウも貴方のことも嫌わないわ……私達、ゆっくりと親子になっていきましょう」
私を母上とこの子が呼んでくれるのはルウのお陰もあるだろう。純粋に母と慕うルウの想いを否定しないためにと……それでも良い。母と子としてのはじまりが普通の親子と少し違うだけ、私達に血の繋がりがなくとも愛情を育てていける。
「ありがとうございます」
手を引っ張り近づいたその身体を確かめるために私は強く抱き締める。いつか奪われたもう一人の息子もこうして抱き締めたい。そのためならば私は何でもしよう。人に言われるがままに流されて生きてきた人生を終わらせよう預言が私の息子を奪ったというのなら私はその預言を拒絶する。
今までの生き方が不幸であったと言う気はない。王族の娘として生まれ育ち、嫁ぎ先を決められるがままに受け入れたのは紛れもなく己の意思だ。
授かった一人息子を身体が弱いからと会うのが月に数回であったとしても愛しい息子だと愛情を持っていたし、国に王である兄に忠誠を誓う夫を尊敬している。
それが胸を焦がすような愛ではなかったとしても夫が好きになれないような人間ではなかったことを幸運だと考えていたのは嘘ではなかった。
夫が兄が今回のことを知っているかどうかはわからない。知っているのであれば夫にルークを探してくれと言ったところで意味はないどころか否定され、ルークの捜索を邪魔されるだろう。
確かめることは難しく、夫が知らないと確信を得るまでは私の少ない信頼する者達で何とかしなければならない。そして、ルークが無事に見つかり連れ戻すまではには『ルーク』として振る舞ってもらう必要がある。けれど……
「、勉学や稽古は辛くありませんか?辛いのであれば止めてもよいのですよ」
「いいえっ!すべて私には必要なことです。ルウを護るためにも……」
他人の人生を背負わされたというその重荷を私は少しでも軽くしてあげたいという気持ちで告げた言葉にが必死に首を振った。その様子は優秀でなければならないというものとは違うように思え、ルウを守ることにどう繋がるのかと不思議に思う。
頑なな光を宿すその瞳にふと小さな頃のルークのようだと思い当たる。お気に入りのぬいぐるみを夜眠る時に離さなかったルーク。夫がルークが6つになった時にいい加減にぬいぐるみと眠るのを止めるように言い取り上げて捨ててしまったがぬいぐるみを捨てないようにと願ったのがあの子の子どもらしい最後の願いだったのではないだろうか。あの時も私は夫に何も言わずにぬいぐるみが捨てられるがままに見ていた。
今とあの時が比べられるものではないとは思うけれどにとって学ぶことがルウを守ることに繋がると信じているのであればそれを否定すればは傷つくだろう。
「続けたいのならいいの。けれど、決して無理をしてはいけませんよ」
「はい。母上」
頷いた子どもの明るい赤髪を撫でて己の物とよく似た髪質に笑みがこぼれた。直接的な血の繋がりはないはずなのに自分に似たところがあることに嬉しくなる。
ルークと並べばまるで双子のようによく似ていることだろうと想像し、思い描いた二人並んだ姿を必ず実際に見ようと誓う。
大切な息子を私は取り戻してみせる。そのためならば私は己が持てる限りの力を、我が身に流れる青き血すらも利用してみせよう。