君護り

いつか全てが無に帰るその日まで


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気持ち悪い。体調が悪いわけではないのに吐き気がした。
「全問正解です。流石はルーク様」
「ありがとうございます」
数学を教える男がわざとらしすぎるほど褒めた。
紙に書かれた問題の答えはすべて正解だったらしいけど嬉しくはない。
それどころか男が褒めれば褒めるほどに吐き気が増す。
「一度身につけた知識をお忘れになられないのは素晴らしいことです。
 こちらの問題は以前にお教えしたきりでしたが合っていらっしゃいます」
以前とは記憶喪失になる前のルークことアッシュがルークであった頃のことだ。
この男は他の知識を忘れた子息が数学のことは覚えているのが満足らしい。
「次回からはお教えする範囲をもう少し進めましょう」
「はい、お願いします」
授業が終わったのならさっさと帰れと内心は思いつつ吐き気を堪えて笑みを浮かべて男の言葉に素直に頷く。
近頃、一つ気づいたことがあった。彼らが求めているのは以前のルーク様ではなかったということに。
この男だけでなく他の多くの教師が『ルーク』を自分の物差しにしていたのだ。
彼等は優秀な自分に相応しい生徒である血統も正しい公爵子息のルーク・フォン・ファブレがほしかっただけ。
唯一の例外はルジストル先生だけで他の教師達は似たり寄ったりだ。
これはファブレ家当主の父上の目が見る目がないという証なのかそれとも他の誰かが彼らを選考したのか。
教師達の態度に気付いた頃から私の身体に起きる変調、教師達が来ると吐き気を感じる。
精神的なものだとわかるソレに自分はどれだけ精神が弱いのかと自嘲してしまった。
ルーク専用の勉強部屋から男が去る様子を確認したガイがこちらへと近づいてくる。
勉強の間も部屋の隅でずっと立っている彼、私がそうするように言ったからだが意地悪なわけではない。
自主的な勉強はしているし、庭師のペールが彼に教えて一通りは知っているみたいだが貴族的な教育とまではいかない。
それゆえにこの彼がもしも貴族に戻るというのなら知識が必要だろうと思って居る様に言ったのだ。
忙しいのなら居なくてもいいと言ってあるが彼はそう言ってからは欠かさず部屋にいる。
ご子息のワガママと思っているのだろうか。それともすぐにルウと過ごすためか。後者ならルウと仲良くなっている証になるけど。
「気分が悪いのか?」
近づいてきたガイが私の顔を覗き込む。
その頃には多少の吐き気が残っていたがよくなっていたので首を振る。
「大丈夫だよ。ガイ」
部屋の中に誰も居ないからこその言葉遣い。
これは幼馴染であるナタリアが居たとしてもこんな気安いものは交わされない。
私達を見ていると彼が言ったあの日から続いている私達の秘め事。
他の誰かが居れば私が決して『ルーク』の仮面を外さないことに彼は気付き、
そして同時に彼もまた私が仮面をつけているとそれに合わせるようになった。
奇妙なことだと思う。少しばかり使用人として非常識だったはずの彼はいない。
誰かが見ていればほぼ完璧に彼は公爵子息の専属使用人の仮面を被ってしまう。
「本当か?体調が悪いのならすぐ言えよ。
心配そうな彼に私は頷く。本当に奇妙だ。
私は確かに彼をルウのために少しばかり変えようとした。
二人きりならともかく誰かが居る時には態度を改めることを覚えるようにっと。
劇的な変化を求めたわけではないはずなのに彼の態度はゲームとはまったく違う。
ゲームでは赤ん坊のルークを世話していたからこその態度だから?
いいや、それに似たようなことはルウを世話していて起きたじゃないか。
見た目が一緒だからか私に対しても気安くなった様子を私は察していた。
多少は仕方がないと目を瞑っていたというのが嘘のように彼は仮面を使い分けるようになった。
「そうする。ガイ、今日は解らないところあった?」
「いや、まとめだったから特には……」
私の問いに首を振るガイ、最初にこの質問をした時に驚いていたのが嘘のようだ。
聞かれると思っていたのか話を聞いていなかった様子だったのを残念に思ったけど、
要らぬお節介というものだろうと何も言わなかったのに次の授業からは耳を傾けていたようで
わからない問題がある時に私が質問すれば聞いてくるようになったのは私の行為の意図を理解したみたいだった。
私が彼に知識を付けさせる気だということを。
「そう、それならルウと遊んであげて」
勉強が終わればルウの時間。
ガイと話しているうちに吐き気はすっかりと治まったのでルウへと変わるために私は目を瞑る。
ルウが彼と遊んでいる時は最近は精神的に疲れているのなら眠ってしまうことも時たまあった。
だからかルウはガイと秘密を共有するようになった。
どんな秘密なのかはルウは教えてくれないし、ガイに聞いても教えてくれない。
それを寂しいとは思いつつも成長の証なのだろうと私は受け入れることにしている。
嘘。本当は受け入れたくない。でも、ルウに私は嫌われたくないから受け入れた。
ガイと接しているルウを見ていると寂しくてルウが遠くに行くようで辛い。
だから余計に私は彼らが遊ぶ時間を眠るようになっていった。



ねぇ、ルウ。お願いだから遠くに行かないで…――
声にならない願いを私は心の奥底にそっと沈める。




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