存外信じることは難しい。疑うことの方が、よっぽど簡単である。
氷河視点
マーマが眠っている海の氷の上に俺はまた来ていた。
ここにはよく来ていて、マーマに語りかけることでいつも心を落ち着かすことが出来たのに今は心が晴れない。
「は待っているだろうか」
扉越しに聞いた彼の言葉を思い出して罪悪感を抱くのは家に戻っていないためだ。
それでも帰らなかったのはに対する気持ちに迷いがあるからだ。
師であるカミュを尊敬している。兄弟子である二人は同じ聖衣を競い合うライバルだけれど俺にはない実力を見せる二人を尊敬していた。
「……家族か」
家族は俺にとってマーマだけだった。師弟、兄弟弟子、そういった括りでしか三人を考えていなかった。
「本当には」
……俺のことを家族だと思っているのか?
俺はにカミュやアイザックとは少し違った印象を持っていた。
修行を真面目にこなすだけでなく、カミュに与えられる以上の鍛錬を繰り返すその姿は聖闘士候補生として相応しいものだ。
なのに、は自らが聖闘士となった後のことを一度も語ることはなく、それは俺だけでなくアイザックにも語っていないらしい。
アイザックはが聖闘士となれば立派に役目をこなすだろうと言っていたし、俺もそう思っていた。だが、もしかしたらは語るべきものがないのかもしれない。
年々、厳しくなっていく修行に弱音を吐くことないだが遠くを見てぼんやりとする回数も増えていった。
視線の先に何を見ているのかなど俺にはわからなかったが、その表情を見るたびに俺は不安になった。
「ああ、そうか」
俺は一つ理解して呟いた。
の遠くを見る瞳がマーマが俺の父親であるという男のことを語った時と同じに見えたからだ。
焦がれる何かを求めるようなその瞳にがマーマのように俺を置いて去っていくように感じていて。
いつか去っていくのならと俺自身もを遠ざけて、それでも俺自身のことを構って欲しいという無意識の甘え。
マーマに贈る花束を台無しにされてしまったことは切っ掛けでしかなかった。
あんな風に感情を爆発させ、怒っていたのは俺の気持ちに気づかないに勝手に失望して不満を溜めていた俺の勝手。
マーマのことをに教えたことはなく、それで理解して察してもらうことなど不可能だ。
マーマを失って、どうすればいいのかわからなかった俺を導いてくれたのはカミュ、共に競い合ったのはアイザック。
のことは競い合うというよりも俺にとってはマーマの代わりのように思っていたのかもしれない。
このシベリアの地での修行をはじめてから俺が怪我をした時には手当てをしてくれた。
自分自身も疲れているだろうに怪我をした俺の代わりに料理を作ってもくれた。それでも、はマーマじゃない。
「マーマにもにも酷いことだよな」
マーマの代わりはいない。の代わりだっていない。
「に謝ろう……だが、その前に」
小宇宙を高め研ぎ澄ます。その小宇宙を込めた拳を向かわせるのは足元の氷、今まで割れることのなかった氷が粉々となっていく。
「師カミュの指導をうけて五年。やっと、マーマに会える」
氷の下にある海で眠るマーマに会えば、きっと素直にに謝ることが出来る。
謝ったらにマーマのことを話して一緒にマーマに贈る花束をと選ぼう。
そう心に決めて俺はマーマが待つ冷たい海の中へと飛び込んだ。