夢という優しい幻をみる
それが運命の分かれ道
久しぶりの地上に来た時に重要なことは情報収集である。そのためにカツィカス家の者に話を聞いていたのだが、現在の教皇の名に思わず声を上げそうになった。
女神として振る舞っている時にそのような真似が出来ないために心を落ち着け、しばらく話を聞いた後に今日のところは一先ず切り上げて、神殿の寝室に一人引っ込んで聞いた話を思い出していた。
教皇シオン、もう会うこともないだろうと思っていた人間の名が約二百年後になっても出て来るとか思うわけがない。
アテナに仮死の法MISOPETHA-MENOSが施された童虎はともかく、シオンは自力で今まで生き続けているのだ。
神官長として聖域に居た頃に伝わっている秘儀の中に延命するものがないかと聞かれはした。
聖闘士の多くを失った聖域を立て直すために長く教皇は必要だろうと教えもしたが……
「私が教えた延命の法は精々寿命が百年伸びる程度だぞ。シオン」
別れた時のままの男の姿を脳裏に浮かべ。
「 、君の聖闘士は呆れてしまうほどにしぶといな」
音にせずにかつて居た少女の名を呟けば軽やかな笑い声が耳に届くような気がした。
もう過ぎ去ってしまった時、忘れてしまったと思っていた記憶はただフタをしていただけのようで地上に戻れば色鮮やかに思い出されその夜、思い出という夢に私は沈む。
数週間ぶりに見る日の光にのん気にも聖域の外れのほうまで散策へと繰り出した私に感じられたもの。
「如何したのだ?」
憤怒、悲哀、負の感情を押し殺した小宇宙を感じ、その小宇宙を持つ者が居るだろう繁みを覗き込む。
「っ!……何でもない」
木に背を預け疲れた顔で遠くを見ていた若者の顔に見覚えがあった。
私に声をかけられた次の瞬間には疲れを隠し、強い瞳で私を射抜く。
「貴方だったかアリエスのシオン殿」
彼とは会ったことはあったが個人的に会話するのは今回がはじめてである。
神官長としてアテナの教育を担ってはいても聖闘士と会う機会は少なかった。それは聖闘士と神官という聖域内の立場の違いのためでもある。
表面上は対立はしていないのだが、見えない壁のようなものを聖闘士と神官は互いに築いているのだ。
聖域にとってそれは憂慮すべきことであるが、私のアテナではない女神の信者が紛れているがためでもあるのだから私にも責任の一旦はある。
「私は先日より教皇となった。知らぬのか」
「申し訳ない。今の今まで神殿に篭っていたのでな」
聖戦で生き残った聖闘士はアリエスとライブラの黄金聖闘士、そのうちの一人はアテナの命で聖域を離れたと聞く。
残った彼は教皇となり、この聖域を護ってゆくことになるのだろう。
「神殿に?神官長と共にか」
「その神官長だ」
神官長の証となる金の腕輪を袖からだし見せれば、多くの神官達は銀の腕輪を、神官見習いは青銅の腕輪であり金の腕輪は神官長だけと知っているのだろう相手は納得したように頷き。
「神殿書庫から出て来られたのか」
「補強は終わったのならば篭る必要もない」
聖域での戦いの余波で損傷した神殿のうち、崩れ落ちそうな神殿書庫を私の小宇宙で支えていた。
元々、戦いの間はどこかに篭っている予定であったのでそれが多少長引いたところで問題がなかったためそのままそこにいたのだ。
「ならば神官達は鎮められよう」
「さほど乱れてはおらん」
神官長補佐からの日々の報告からすると神官達の犠牲は少なく、聖戦前通りとはいかないまでも混乱は少なかったはずだ。
「私の元に届く資料が滞っておる」
細められた苛立ちを含むその目に何を乱れと言ったのか理解する。
聖戦によって多くの聖闘士を失ったことを神官達の多くが不甲斐ないと思っているのだ。
それゆえに、その筆頭となってしまった若き教皇に対して僅かばかり意地の悪いことをしているのだろう。
「……なるほど、必要なものを揃えて持ってゆこう」
今は早急に立て直すべき時である。そのような些細なことに拘ってる暇はないというのに。
「早急に頼みたいものだ。神官長」
「明日の朝一番に届けてやろうではないか。教皇」
神官達とのやり取りに疲れていたのだろう若者へとそう告げて、私は神殿書庫へと舞い戻り、教皇を継いだ者に必要だろう資料、聖域の建物の詳しい建築資料、必要だと思われる資料全て教皇宮へと運び込む準備を夜中までかかって整える。
翌朝、資料を届けに行った私に若き教皇は…――
「ああ、夢か」
次の日に揃えることが出来るのならば何故、神官達は出来なかったのかと私を叱責した。
それは教皇が神官長を叱責することで実質は神官長を教皇の下としたかったのだろう。
私としては理不尽ではないかと思ったが、同時に神官長としては神官達の行為は諌めることが出来なかった私に責があったために謝罪と共に詫びと称して神官達を教皇宮に派遣したのだ。
アテナの前であった為に、彼女は私の純粋な好意からの申し入れだとシオンを説得してくれたのだが。その時のシオンの悔しげな顔は今思い出しても……
「生きているというのなら、此度も聖域に行くのも一興」
今回のアテナは聖域に生まれ落ちる。その他の私の施した秘儀がどこか解けていないか見るだけならば聖域に潜り込む必要はない。
だが、会えるはずない者と会えるというのなら、かつて共に過ごした者として会うことは出来なくとも行く価値はあるだろう。