惰性という名の情を捧ぐ
覆される未来予想図
神としての視点で見るならば人とは、人にとっての犬猫のようなものに近い。人に神が恋したとしても彼等の感情よりも己の感情を優先させるし、人は神よりも劣った存在と認識している。
前世が人である私にとって許容出来るものではなく、それゆえに母や姉以外の神々との交流を私が避けることと繋がり、私の名を呼ばれぬ神としての形式を高めたと言えるだろう。
本来、名を忘れ去られた神は力を減じるものであるのだが私は秘儀の神として真逆の性質を与えられたのだ。
知らぬ者が多ければ多いほど私の神としての神秘は高められ、秘儀の女神デスポイアの力は神秘薄れた世界にすら深く浸透する。
それを理解したのは地上と隔てられたオリンポスと地上を幾度か行き来してからだった。
神秘薄れた地上に永く留まれば力の強い神々ですら力を失っていくというのに、私は力を減じるどころか力を増したのだ。
母に言えば主神たるゼウスに知られれば大したことの無い理由で罰せられ封印されるだろうと助言を与えられ、それを否定するどころか納得した私は自らの力を地上に降り立った時に消費するように務め、ゼウスの力を超えないように調整した。
かつては私の力は他の神々の力によって浸透しなかったというのに、神々が地上を離れたがゆえに面白いように私の力は世界をおおう。
地上の覇権を争う神々がいるというのに私は秘儀の女神であるがゆえにか力を揮ったことに気付かれなかった。神としてどうかと思うが私は隠匿に長けた神であったらしい。
私の力は順調に地上をおおい、地球に生まれてくる人々の中から聖闘士となれる素質を持つ子供らの多くをアテナの元へと導いた。
数百年に一度やら十数年に一度やら自らの気まぐれでかつて自らが施した秘儀の解れを直していた私だが、常にアテナを最善の状況で転生できるものではなかった。
秘儀の解れだけでなくその時の星の導きが影響することもあり、いつも以上にアテナの転生が難儀であると判断した私は聖域へと紛れ込んだ。
私を信仰する一族のうちの一つカツィカス家の力を借りたのだ。カツィカス家はアテナに秘儀を施した後にアテナに仕えている一族であり、古くから仕えるカツィカス家は聖域において力を持つ一族となっていた。
それを望んで仕えさせていたのだが、小宇宙を操る必要のある術を伝承した家系だからといってそこまで深く潜り込むとは彼等の家を守護している私でも意外であった。
何故なら、秘儀の女神である私の守護を与えられた彼等は戦う者ではなく、どちらかというと学者といった知識人であるからだ。
聖域にいつの間にか聖闘士ではなく、古き知識を残し伝える神官という役職を作り出していたのは驚いたが、アテナが司るものを考えれば納得がいくものではある。
聖闘士を束ねる教皇と同一の権力を持つ神官を束ねる神官長、彼等の決定を覆すことが出来るのはアテナだけというのだが、神官長となるのが大抵がカツィカス家の出というのが怖い。
そんな頼もしすぎるカツィカス家のお陰で私は神官として、生まれるだろうアテナを聖域で待つこととした。
女神として扱われず、ただの人として扱われる日々の生活は存外に楽しいものであった。
聖域の神官は性差、年齢差を隠すために身体つきを隠すためにローブをまとい仮面をつける。
名目上、神官達は全ての者が知識の伝承者であり、年配者も若輩者も男も女も神官長以外は同一の地位とされているためだ。
時代が流れるにつれて、副神官長やそれぞれの補佐などの立場も生まれたというが、神官達にとって正しき知識とそれを瞬時に相応しい時に述べることが出来ることが重要なのである。
前世が人であろうが神様だった私は多くの知識を持ち、それを訊ねられれば答えることが可能であったために聖域で十年と過ごすうちにいつの間にやら神官長補佐までになっていたのである。
アテナが女性の腹から生れ落ちただけでなく、聖域の者がそんなアテナを発見するのにかなりの期間を必要とし彼女をやっと見つけたときには神官長となっていた。
聖域に神官として仕えはじめて二十年で神官長は今までに無いことだったらしいが、前任神官長がカツィカス家当主だったので思いっきりコネである。
きっと他の神官達もカツィカス家出身として入ってきた私のことをそう思っていたことだろう。
自分としては神官長補佐あたりで止めて欲しかったが聖域外で誕生したアテナに対し、聖域のことを教えるのは神官長の役割。
そのために神である私に役割を回すために少々強引ではあるが彼は自らと私の役職を入れ替えたのだ。
聖域へと戻った今代のアテナは人と同じように人から生まれたがため、その力は歴代のアテナの中でも最弱に近かった。
その彼女が冥界を統べる神であるハーデスと戦うことに不安を覚えた私は彼女に様々な秘儀の知識を教え、聖域の奥で聖戦が終るのを待ち続けた。
人であるアテナが率いた此度の聖戦は多くの聖闘士が命を落としたが、ハーデス、ヒュプノス、タナトスといった主だった冥界の神々は封印され辛くもアテナが勝利したのだ。
地上に残る深い聖戦の爪痕、失われた幾多もの命、地上を護るために支払った代償は大きいものであったが残ったアテナと生き残りの二人の聖闘士は聖域の復興を頑張り始めた。
当初は次代のアテナは聖域で生まれるように調整しただけで充分であると思っていたが、一時的にせよ秘儀を教え子であった者が頑張っているのに去るのは如何なものかと情に絆され復興を手伝った。
本来、それは神官長がするべき役割ではなかった。あくまでも神官達が行うのは伝承すべき知識の保全であったのだ。
教皇は聖闘士の育成と聖域の治安を。神官長は降臨したアテナの育成と伝承すべき知識の保全を。
今まで教皇と神官長は互いの領分を守り続けていたというのに、異分子である私はそれを破り神官達にも聖域の復興に関わらせた。
神官であろうとも聖域の一員であり、その復興に努めるのは当然のことであり環境を整えることは知識の保全にも繋がると屁理屈を言った。
それに女神と黄金聖闘士であってもまだ若い彼らは私に押し切られることになり、復興初期の頃の教皇となった若者の悔しそうな様子はなかなか面白かったとかつてのことを思い出していた。
神官となってから三十年以上の時が流れ、その間ずっと神ではなく人の時を生きていたがゆえに忙しなく過ぎた日々においての苦楽を共に過ごした者を前にしているからだろう。
三十半ばとなった目の前の男は若かりし頃よりもふてぶてしい態度をすっかりと身につけてしまったのだが。
「何やら楽しそうだな。神官長」
人払いされた教皇の執務室に艶のある低い男の声が響いた。
私は仮面の下で見えない笑みを浮かべ。
「アテナに復興の手伝いを申し入れた時を思い出していた」
仮面を通して響いた声は高くも低くも無く、性差を極力感じさせないものとなっている。
問題があるとすれば神官の声は仮面を通すと誰であっても同じように聞こえてしまう点だろう。
個別判断がローブを来ていてもわかる身体的特徴、身長、髪色や髪型でしかできないのは不便なのだ。
「何か面白いことがあったか?」
「教皇、貴方の態度は思い返してみるとなかなかに面白かったぞ」
私からの申し入れに必要ないと一刀両断した男の言葉に笑みを深める。
仮面の下の表情を目の前の男が見たら盛大に文句を言うことだろう。
「……人が悪い」
逸らされた目線に苛めすぎかとフォローを入れる。
「無理からぬものであったとは理解している。神官が聖闘士の領域を侵すと思っていたのだろう?」
「あの時の私の考えは間違っていたようだ。聖戦より十五年、神官達は知識の管理をする本来の姿へと戻った」
彼の視線が先ほどまで読んでいた書類へと向けられる。
本来であれば私が持ってくるようなものではない。それは神官側からの教皇への書類だった。
聖域の復興のために教皇側に借り出されていた人員が全て神官長の元に戻ったという内容が書かれている。
「以前とは違い聖闘士と神官の繋がりは出来たがな」
かつては言葉を交わすことなど無いに等しかった神官と聖闘士だが今では立ち話をしている姿を見受けることが出来るようになった。
「悪い変化ではない」
その変化を好意的に見ているのは私だけではないようで、教皇である彼もまた満足そうな色をその声に滲ませた。
「神官達の力を借りぬと言っていた若者の言葉とは思えん」
「からかうな。しかし、いつにも増して口が悪いではないか」
外された教皇としての仮面。若いがゆえに舐められぬようにと身につけているそれは神官長である私に対抗するためのものであったはずだった。
だというのにいつの間にか目の前の男は私とアテナの前でしかその仮面を外さなくなってしまったというのは私が彼の心の内側に居るということか。
神官として仮面を外さず、名すら教えていない私の何を目の前の者は信じたのか。
「此度のような軽口を言い合うのも今日で最後かと思えば口の動きもすべらかになったのかもしれぬ」
身につけた仮面の頬に右手を添える。人の肌ではない硬く冷たい仮面を私は彼の前で取ることはない。
「最後?」
「今日の報告によって聖域の復興とした私が出来ることを終えた。次代の者が神官長となる」
本来であったのなら聖戦後すぐに私は去るはずだった。
長すぎる時は神ではない人としての私の心に未練を募らせた。
「それは決定か」
目の前の男の声が表情が寂しそうだと思うのは気のせいではないんだろう。
「正式にはもう私は神官長ではないし、明日には神官として除名され聖域を去る」
神官長としての聖域の復興が終ったこの時、この機会を逃せば聖域を去る機会がいつ訪れるかわからない。
「わたしは知らされておらんっ!」
怒鳴り声と共に立ち上がった彼の膝から落ちる教皇の仮面は高い音と立てて床の上を滑り、書類が舞った。
「神官長の引継ぎは教皇からの許可を必要とせん」
「だとしても前もって相談をするべきではないかっ!」
十五年、多くのことを相談して決めてきたというのに勝手に決めて勝手に去るという私を許せないのだろう。
「お前に止められれば決心が揺らぐ」
強いその瞳に私は笑う。泣くことなど出来ないから。
「揺らぐというのであれば何故、聖域を去る」
先ほどまでの激昂が嘘のように抜け落ちた表情。まるで仮面のようだ。
「教皇……いや、シオン。教皇と神官長は一定の距離があってしかるべきだ。我等ではその距離が近過ぎる」
床に落ちた教皇の仮面を拾い上げ、己の顔にある物とよく似たそれの淵に指を這わせる。
「神官長」
その役職しか名乗ったことがないがゆえ。
「シオン」
彼に近づき私よりも背の高い彼の顔を見上げる。
「何だ」
「最後となるのだから君に名乗っておこう私の名はだ」
手に持っていた仮面を彼に差し出す。
「」
差し出した仮面を持つ手の手首を彼が掴んだ。
「何だ」
「お前のこれからに幸運を願っている」
手が放され仮面を掴むと彼は背を向けた。
「感謝する。シオン」
その背に私もまた背を向けて立ち去った。
さよなら。私も君の幸運を願っているよ。
聖域の復興に努めた神官長が聖域を去ったその5年後カツィカス家から一通の訃報が教皇の下へと届き、受け取った教皇は人払いをし故人を悼んだ。
この後、彼は教皇として聖域を長く護り続けることとなる。聖戦を乗り越えた者が聖域に彼以外に居なくなろうとも……