天の章 18.感情


私の目の前にいるのは赤い鬼。鋭いその眼差しで私を見つめる命の恩鬼たる彼の前で私がしていることは食事だ。
近頃は蒼夜と一緒に食べているのに外出先から帰ってきたらしい天鬼に呼ばれたと白紅につれられてきた部屋で私は夕食を出された。
同様に私の前に座っていた天鬼の前にも同じ物が置かれたので今夜は彼と一緒に食べるらしいとは理解している。
ただどうして私は彼と二人きりで食事をしなければいけないのかがよくわからない。
この部屋に入ってずっと無言であったわけではなく挨拶はしたけれど、それ以外のことは喋っていない。
それは私の挨拶にもただ頷いただけのこの赤い鬼が悪いのだ。ずっと黙っていられると威圧感がすごくて私はそれに負けた。
「……いただきます」
食事を終えたら話があるのかもしれないし、部屋に戻れるかもしれないと食べ始める。
天鬼は動かない。目の前にある美味しそうな御膳の上の物を見てもいない。
「ご飯、冷めますよ?」
手を止めて口の中に物が入っていない状態にしてから私は声をかける。
美味しそうな食事が目の前にあるのに何故食べないのかわからない。
そうは見えないけれど具合が悪いというのならここで私と居ないで身体を休めたほうがいい。

「はい」
天鬼が私の名を呼んだことに身体がはねる。
名を呼ばれたことではなく彼のその声に怒りを感じたから。
彼がどうして怒っているのかはわからないけれど天鬼は怒っている。
それに気付いた私は逃げ出したい気持ちで一杯だった。
「来い」
なのに彼の言葉には逆らえない。
低いその声に魔力でも込められているかのように立ち上がり彼へと近づく。
「あっ!」
何処まで近づけばわからずに少し手前で足を止めた私を片膝をついた天鬼が手を伸ばして引き寄せた。
抵抗することも出来ないままに私は天鬼の上に倒れ込み、私の足元では御膳の上に置かれていた料理が散乱している。
白紅に怒られてしまうと場違いなことを考えている私の首筋に鋭い痛みが走った。
「っ!いた……」
その痛みの原因が天鬼に噛まれたせいだと気付く前に首筋に感じた生暖かく柔らかいもの。
ぴちゃりと音を立てるのは彼の舌だ。首筋に感じる彼の舌、その舌が動くたびに痛みが走るのは怪我をしているのだと思う。
彼の鋭い牙で私の首筋に穴が開けられたのだと推測しながらも彼が何をしているのかが理解できない。
私の首筋につけた傷を舐め啜る彼の行動が……
「甘いな」
呆然と彼の行動になすがままだった私の耳に彼の声が聞こえた。
「あ、天鬼?……んうっ……」
何をしているのかと問おうとした私の口を天鬼がその口でふさぐ。話していたことで口を開けていたために天鬼の舌が口内に侵入し私の口の中を侵す。
彼から放れようと腕の力を強めても放れることが出来ず、彼の舌を押し戻そうとした私の舌は逆に絡め取られた。
「……はぁ……やめ……」
僅かな隙を突いて制止の言葉をかけても彼は止まらない。
呼吸が上手く出来なくて息苦ず何が起きているのかパニックを起こした私には解るはずがなかった。
最中に天鬼の喉が動くさまに彼が私の涎を飲んでいるということに途中で気がついた。
気付いたところでどうにも出来ずそのまま彼の気がすむまで口内を蹂躙され続け、
気絶はしなかったものの身体は動かせずぐったりと天鬼に身体を預けている。
乱れていた呼吸が落ち着いてきても動く気になれない。頭の片隅では逃げなければと訴えているのに。

のろのろと私は視線を彼の顔へと向ける。
金色の瞳に映る私はひどい有様だった。
髪は乱れ、着せられている着物が肌蹴て胸が見えそうだ。

天鬼の顔が近づいてくる。触れるような口付け。
「俺の名を呼べ」
低く擦れた声。
「天鬼?」
その声に促がされるように彼の名を呼べば嵐のような口付けが再開された。
一ヶ月ほど彼の屋敷に世話になっていたが今までこんなことはなかった。
彼自身と会うことすら滅多になく姿を見かけたことも数回だというのに……。
「あっ……いや!おねが……」
天鬼の手が私の肩から着物を脱がす。
嫌な予感しかしない私は彼を止めようと一度は諦めた抵抗をはじめた。
これ以上進めば何が起きるのかなんて想像がついた。
私を助けたこの鬼が嫌いではなかった。だけど、私の意思を無視するその様子に憎しみが湧く。
「止めて!天鬼っ!」
強い気持ちに涙が溢れてきた。
天鬼は私の抵抗などその力強い腕で封じ込め、私の目尻に口を寄せ涙を舐める。
その私の抵抗など物ともしない態度によけいに涙がこぼれる。
、お前は……」
こんな時であっても私の耳は天鬼の声を拾う。
「俺の物だ」
「いや!」
私の意思など無視する男の声。どうにもならないのかと絶望が襲う。
ここは彼の屋敷で彼に仕える者しかいない悲鳴をあげたところで意味はない。
私を慕う蒼夜だけは私の味方かもしれないけれど、あの子はこの鬼に敵わない。
きっとあの子が逆らえば天鬼はあの子を殺す。
「放して……いやあぁぁぁぁぁ!」
悲鳴を上げた。この感情を閉じ込めておけなかった。恐怖、怒り、憎しみそして絶望。どろどろとした負の感情。
目に映るものに意味などなくただ男の行為を受け入れたくなくて……
「天鬼様っ!」
あげた悲鳴に答えるものなどないはずだった。
「お止め下さいっ!」
私の目に白が映る。今にも泣きそうな顔をして悲痛な声で美しい白鬼が叫んでいる。
何時の間にか入ってきていたのか彼が近くに来ていた。
「出て行け」
拒絶を含んだ天鬼の声。 
「天鬼様、あの者に何と言われようともお気になさいますな」
彼はこの鬼に心酔していたはずだその彼がどうして主たる鬼の行為を止めるのか理由など理解できないけれど行為は止まっている。
天鬼が白紅を今にも殺しそうなほどに強く睨みつけていて、その視線をあびていない私ですら息が詰まった。
その視線を直に向けられた白紅は青ざめてはいたが目を逸らすことなく受け止めて。
「巧言に惑わされましたか。我が君」
彼は泣いている。声も涙も流していないというのに私には白紅が泣いているように思えた。
「……」
私を掴んでいた手が放され、無言で立ち上がる天鬼は私を見ることなく部屋を出て行った。
助かったのだと自覚すると身体が震えはじめた。私の中の膨れ上がった憎悪も絶望も萎んでいく。
私自身を染め上げるような暗い感情をすべて忘れたわけではない。その証拠に私は天鬼が憎い同時に怖いと感じている。
、あの方が憎いですか」
白紅の言葉に私は頷く。
「あの方が怖いのですか」
その言葉にも頷く。
「そうでしょうね。ですがその気持ちに染まることはないようになさい。
 ここは人の世と違って心がその身に反映されるのだから……」
紅の瞳が私を覗き込む。
美しいその顔を歪めた彼の右手が私の両目の上に置かれ。
「眠りなさい。今は何も考えずに」
静かな彼の声に目蓋が重くなるのは彼が何かをしたのだろうと思う。
抗えぬ眠りへと誘われながら頬を伝い降りる涙の冷たさを私は感じた。