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天の章 19.華姫


目が覚めた時に感じたのは身体の重さ。どうしてだろうとぼんやりと考えていた私の額に汗で張り付いていた前髪を払ったのは冷たい指。その後すぐに濡れた布で額の汗を拭われ、誰かが熱を出した私を看病してくれているのだと気付いた。
「お……かあさん?」
擦れたその声に自分は喉が渇いていてるのではないかと考えていると口元に触れる陶器。
「水を飲みなさい」
母のものとは違う声に聞き覚えがあるような気がする。誰だっただろうかと考えつつも口を開けると水が少し入ってきたので飲み込む。これでは足りないと口を開けるとまた水が入ってくる。
寝たままではなく上半身を起こせば良いのではと思って目を開ければ熱でかすむ視界に白が見えた。この人は誰だったかと考えて彼のその双眸を認識できた時に思い出した。
「しら……く?」
紅の瞳が私を見下ろしている。熱で浮かされた私には今の彼の心情など読み取ることも出来ずただ彼の瞳を見つめ返す。
「ごめんね。また……」
彼に看病をしてもらうのはこれで二度目だ。日々の生活も食事など彼に準備してもらっているというのに迷惑を掛けっ放しだった。
ここに来たのは私の所為ではないとしても彼が私をここに連れて来たわけではないし、私という存在を疎ましく思っている彼には面倒なことでしかないだろう。
ひどい言葉を言いながらも私の世話を充分すぎるほどにしてくれる彼は優しい。鬼だと言った相手を優しいなどと感じる私は馬鹿かもしれないけれど……
「謝るぐらいなら熱などださないことです」
淡々とした物言いで白紅はそう言いながら桶の水に手拭いをつけて絞ると私の額に畳んだ手拭いを額へと置いてくれたが目元まで覆われてしまったので何も見えなくなった。
手拭いの冷たさに私はそのまま目を閉じれば、身体がだるくて意識がすぐにでも落ちてしまいそうなのに私は眠れずに白紅が出す音に耳を傾ける。
「貴女に何も伝えなかったのが間違いだったのでしょうか」
静かな部屋に白紅の小さな声が漏れる。他に何か大きな音があれば消えてしまいそうなほどに小さな声には感情が込められているように感じたけれど目を開けても彼の表情はうかがえない。
「知らないままで済むのならばそれでよいのだと……」
知らないまま?私は何を知らないのだろう。ううん、ここでは知っていることのほうが私は少ない。
きっと知らないから私はこの世界を受け入れられなくても否定しないでいられた。でも、もうそれも出来ない。赤い鬼である彼が出来なくさせた。
この世界は知らないままであれば私を容易く傷つける。知らないままであれば傷つけられるだけなんだと赤い鬼が私に自覚させた。
「わたしは……」
知りたくないと耳を塞ぎ続けるのは簡単だ。
「知らないと」
傷つけられたくないのならば自分のことを守らなければいけない。私には鋭い牙も爪もないけれど考えることは出来る。
右腕を動かして目元を覆っていた手拭いを取って視界を広げる。
「お願い。白紅」
天鬼や他の鬼から身を守る術を得るために頼むのが、鬼であるはずの白紅であることを皮肉だと思いながらも今の私に唯一、知識を与えてくれるだろう存在へと私は求める。
自分の面倒を見ることを嫌だと思っているだろう存在に私は恥も外聞もなく願うしかないのだから!
「知りたいと?流されるままのほうが楽でしょうに……あの方にあのような真似をされるのが嫌であれば貴女から求めればいい」
彼の指が私の頬を首筋を滑るように降りて鎖骨のところで止まり。
「私からも人はとてもか弱いモノであるとあの方に告げますから……」
彼は身を屈めて顔を私の顔へと近づける。彼の言うあの方、天鬼のことがあって意識せずとも強張る身体に気付いているだろうに白紅は離れていかない。
中性的で異性を感じさせないとはいっても彼もまた男であると知っている私にとっては拷問でしかなく、彼を恨みがましく睨みつけた。
「嫌」
きっと彼が言うことは賢いやり方だと思う。天鬼が私にどうしてあのような執着を感じているのかは理解できないけれど強い鬼である彼に気に入られて守られるままで居たほうが私の命は守られる。
その執着を強くさせるために身体を使う方法だって命を失うことに比べたら簡単だとも思う。でも、そうしたら私の心は傷つく命が助かっても今の私ではいられない。
「私は私でありたいっ!」
屈んでいた白紅の着物の襟を掴む。
「そんなことしたら、きっと私じゃない」
額と額が触れそうなほどまで白紅の顔が近くなったが彼が両手でそれ以上近づかないように踏ん張ったらしく彼の髪が私の顔にかかっただけ。
いや、かなり近づいたからか香りを感じた。嗅いだ覚えのあるような香り。何処で嗅いだのかと思い出す前に私の手を襟から彼が外した。
「人で言うところの恋や愛がなければ嫌だとでも?」
「そうだよ……好きじゃないと嫌だ」
人と人が結ばれる時に誰もが真実の愛のもとに結ばれるなどと思ってはいないし、今の私の感情は綺麗事だとも思っている。
日常は無くなり、非日常の中で生きているのだということを心が理解したくなくて馬鹿みたいに足掻いているのだとも思ってる。
「それが錯覚でも」
天鬼のことを嫌いではなかった。命を救ってくれた彼に感謝の気持ちを抱いていた。それはもしかしたら恋にも愛にも変化したかもしれない気持ちだった。
「……知りたいのならお教えしましょう。ただ条件があります」
「条件?」
白紅が何を求めているのか想像つかずに問い返す。
「あの方を愛する努力をなさい」
「そんなの……」
無理だと告げようとした私の口を白紅の冷たい手が塞ぎ、離れていく。
「執着したものに対して鬼は狂ったように求めるもの。本来は他の鬼を近づけることを許せないものなんですよ。意思の強い鬼であればその本能を抑えることも出来ますが、そうでなければ貴女の命など尽きていたことでしょう」
白紅の言葉に天鬼の言葉を思い出した。私を自分の物だと彼は言っていた。
「どうして私に執着するの?」
私のようなただの人間を彼が執着する理由。それが今の状況を作り出しているような気がして私は白紅に問う。
「貴女が華姫だからです。鬼の力を惑わせる香りを放つ鬼の子を孕むことが出来る人の女。純粋な鬼であればあるほどにその香りは毒となる」
自分自身が毒だと言われて嬉しいはずも無く、また説明だけを聞いていると私と鬼の関係は猫にマタタビだと言われたような気がする。
そのようなことで私はあの赤い鬼に執着されたのかという悔しいような怒りのような感情が湧き上がる。
「鬼に喰われたくなければ貴女はあの方を愛せばいい。そうすればあの方は庇護を与えてくれる」
私自身が気に入ったわけではなく私が放つという香りの所為で狂った鬼を愛せという目の前に白い鬼を睨む。
いつもの如く冷めた眼差しで私を見ているのだろうと考えていてのに彼は奇妙な表情をしていた。彼の唇が笑うことに失敗したように歪み。
「私もまた貴女を護って差し上げましょう」
天鬼を狂わすなと言っていた彼が私を護ると言った。ああ、そうかとやっと私は理解する。
彼は優しいから私の世話をしていたのではなく華姫が放つという香りに狂った自らの主を護るために繋がるから私の世話をしていたに過ぎないんだと。
私自身ではなく華姫という存在でしか求められていないという馬鹿馬鹿しい現実から一時的に逃げるために目を閉じる。夢の中であれば私は華姫でもなくただのでしかない。