あの日から十日ほど経ったが天鬼は一度も姿を現さず、白紅もまた食事時以外に姿を見せなくなり、必要な事以外は喋らなくなった。そうなると余計に暇を持て余すようになった私は、白紅と話すことは退屈だと感じていなかったらしい。
こうなってくると憎まれ口でも叩いてくれていた方がよかったと思ってしまうのは人恋しいのかもしれない。今は昼食の時間が終わり、お膳を白紅が片付けた後。次の食事まで時間があるが時間潰しに眠ってしまったらただ身体に肉がつくだけとなってしまうと寝るのを我慢しているところ。
私が部屋から出ることを快く思っていないだろう彼等の事を考えれば大人しくしていた方がいいかもしれない。しかし、部屋に閉じ篭りきりでは気分は沈むばかりだ。私は部屋から外へと出る決心をし、また無限回廊に迷い込むような事がないように今度は庭へと繰り出した。靴はないので素足だ。素足で庭を歩くのは足の裏が思ったより痛かったけどその痛みが逆に色々と考えていた事を遠くさせてくれる。
歩いていると塀が見えてきたので、その塀を少し回ってみようかと思い立ったが、足の痛みはしばらく歩き続けると酷くなってきた。それ以上先には進まない方がいいかなっと考え始めたときにソレが目に飛び込んできた。
先ほどまでは目に入っていなかったのが嘘のように、見つけてからは目を離せなくなった。この屋敷の敷地外へと続いているだろう木で出来ているのだろう戸。その戸は閂のみのようでその閂を開ければ外へと出て行けそうに思える。
……逃げ出そうと、思ったわけじゃない。ただ泣いた白紅をまた見るのは嫌だったし、悪い鬼ではないだろう天鬼が狂ってしまうかもしれないことも嫌だった。そのならない為には彼らから離れた方がいいかもしれないと、そう思ったのは事実だ。だが、この夢に迷いこんだ切欠だろうあの何かに追いかけられた記憶はまだ私の中にあり、似たような異形の存在に出会うかもしれないと思うと外に行く決意はまだない。
「……外を、見てみようかな」
口に出すとそれは名案に聞こえた。外にいく勇気がなくとも戸の隙間から覗くぐらいなら大丈夫だろう。少しでも外の様子をうかがい知る事ができる。
私は戸の閂を外し、少しだけ開けて外を覗き見る。人が通って踏み固められたのだろう土の道、その道は木々が連なる林に伸びていた。林の先に何があるのかは木々に遮られてわからないが今のところは平穏そうなただの林に見える。多少、私が知っている林よりも薄暗いように見えるところは除いては。
「?」
また戸を戻して閂をかけておこうと戸を閉める前に林の奥に動く何かが見えた。徐々に近付いてきているように見えるその物体にギクリッと思わず肩を震わせたが此方に向かってきているのは小柄な人影が一つだけだった。
私が最初に見たような鬼達よりもまだ小さく見えるの人影は時折、後ろを振り返りながらも必死に駆けてきているように見えた。その仕草に覚えがあった。
「まさかっ!」
目を凝らして私は小柄な人影の背後を見つめ…――黒く蠢くアレを再び見てしまった。此方に駆けてきている人影はそれから逃げているのだとわかっても、私は天鬼のように追い払う事はできない。
それに何より、アレは恐ろしいものだと本能が告げていて動く事もできずにカタカタと身体が震えだす。あの黒く蠢くモノが此方に来る前にこの戸を閉めなくてはいけないという考えにとらわれてノロノロとその為に私は腕を上げたが……。
アレから逃げているのはまだ10にも見たないだろう子どもに見える。必死に、必死に小さな手足を動かしてアレから逃れようとして走ってくる子ども。見知らぬ子だ。だから…――私は何を今考えようとした?
「……で…おいで」
この戸を閉めたらあの子は逃げ場所はない。だったら、この戸を閉める事は見殺しにするということだ。
「おいでっ!」
私は大きな声で子どもに声をかけた。大きな声を出したことで私の身体は恐怖を押し殺して、動くようになった。子どもは私の声に視線を上げて此方を見たが、もう疲れきっているのか速度はあがらず徐々に後ろのアレが子どもに近付いていく。それを見て私はあれほど怖がっていた外に飛び出し、恐れていた黒く蠢くアレがいる方へと駆けていく。
偽善だ。
偽善偽善偽善偽善偽善偽善偽善偽善偽善偽善偽善偽善偽善偽善偽善偽善偽善偽善偽善偽善。
私の頭の中でただその言葉だけが頭の中を駆け巡った。先ほど、見知らぬ子どもだから見捨ててもよいと考えそうになった自分が……無意識にでも閉めようとした戸、子どもを我が身可愛さに見捨てようとした私が子どもを救おうと駆け出しているのだから。
「しっかり掴まってて」
子どもの両腕を掴んで私は無理矢理に抱き上げる。こんな状況だから持ち上げる事が出来たのか子ども自身が軽いからなのかはわからないが、私はすぐに子どもを抱き上げると方向転換をして屋敷の戸へと駆け戻る。
後ろを振り返る事無く、怯えたように私の着物を掴む子どもの存在すらも半ば忘れて私は走り……。
「……うっ…はぁ……はぁはぁ……」
倒れこむように片手を塀について戸をくぐった。
戸を閉めて閂をかけようと戸を振り返った私の目に今まさに戸の前へと到達したアレ等の姿。これほどまで近くにあるとその一つ、一つが認識できて……人に似た小さな背格好はガリガリに痩せながらも腹だけがぽっこりと脹れてこれが餓鬼というものなのかと見てわかった。
もう戸を閉める時間すら残されていない事は明白で、私は追いつかれてしまったのだと理解し。
バチンッ
戸を潜ろうとした最初の餓鬼が爆ぜた。
バチンッ、バチバチンバチン
何が起きたのか今度は理解できない私の前で餓鬼達が目の前で爆ぜる。
前の餓鬼が弾け消えているというのに、それすらも解らないのか後から後から続いて飛び込もうとして爆ぜる。
これではまるで崖に飛び込む自殺者の群。コレは人ではないと解っているが、ほとんど人のような姿をしている餓鬼が消えていくのは決して気分が良いものじゃない。私はギュッと子どもを抱きしめて……爆ぜていく餓鬼達を呆然と見ていた。