天の章 10.狂気の片鱗


私が白紅と共に白紅の部屋に居た時間はかなり長かった。最初はともかくとして、ずっと睨みつけられっぱなしだったから必要以上に長く感じていた可能性は否定できない。
向かい合い、その睨み付けっぷりに屈指、正座で彼と向かい合っていると視線が外れた。
「?」
その視線が向けられたのは襖で私達が入ってきたところ。誰か来たのだろか?――…そう思ったのは間違いじゃなかったらしく、白紅は音も無く立ち上がるとそこに居た天鬼を迎え入れる為に襖を開けた。
「闇鬼は帰ったぞ」
天鬼は白紅を見下ろして言う。白紅は天鬼を見上げる事無く頭を下げていたのでその表情は伺えない。でも、安堵したように肩が下がったように見えた。

名前を呼ばれたので白紅へと向けていた視線を天鬼へと向けたけどその強烈な視線に負けて伏せてしまった。よくわからないが何やら怒っている。怒っているとはわかるんだけどそこまで怒る理由が本当に思い当たらない。
「……
促す様に呼ばれた名に再度、視線を向ける。天鬼はきっと、来るようにと呼んでいるのだろう。そう感じたが私は立ち上がらずに天鬼を見つめている。
「此方へ来い」
名前ではなく来るようにと言われ。
「……っ」
立ち上がろうとしたが立ち上がれない。もしかしたらと思っていたけれど私の足はめちゃくちゃ痺れていた。
っ!」
少し動いて動きを止めた私に天鬼が強い口調で私の名を呼んだ。その迫力に思わず目を瞑る。
「――っ!あっ、足が痺れて」
何も言わない事で天鬼の機嫌が悪くなったりしないかと慌てて事情を説明する。足が痺れたなどと言うのは恥ずかしいものがあったけど、その恥ずかしさよりも天鬼の怒りの方が恐ろしい。足音が近づいてきた。きっと、天鬼の足音だろう。
「……ぅわっ!」
軽々と身体が持ち上げられ、驚きで目を開ければ背中が間近にあった。何事が起きたのかと戸惑い自分が置かれた状況を確認してみると天鬼に担ぎ上げられている。この格好は初めてじゃなかった。此処に連れられてくる時にこういう風に担がれたからだ。
私が何も言わない間に天鬼は白紅の部屋を出て行く、ちなみにその時、私は白紅の頭の天辺を見る事が出来て彼が綺麗な旋毛の持ち主だと知った。あまり必要のない知識だと思う。
「あの」
「何だ」
ゆらゆらと揺れるのは気分が悪くなってくるので好きじゃない。天鬼は立ち止まる事はしなかったが、私の声に答えてはくれた。
「自分で歩かせてください……その、頭が下だと気持ち悪く――ふわぁ」
急な回転に奇妙な声が出た。担ぎ上げられていた格好から今度は天鬼の左腕に座る格好になっていた。確かにこれは気持ち悪くは無いけれど不安定で、安定を保つ為には天鬼の身体に身を寄せる事になる。
「おっ、下ろして下さい……重いですし」
私の声が聞こえないはずは無いのに、天鬼は私を下ろさない。怒っているのか天鬼は唇をきつく結んで歩いていき、足で器用に襖を開けた天鬼は部屋の中に入っても私を下ろしてはくれなかった。
「…………」
ここでもう一度、下ろしてくれるように頼んでも機嫌を損ねてしまうだろう。普段の彼には感じない恐怖が今の天鬼からは感じる。何故だろうか。今は白鬼よりも私は天鬼が恐ろしい…――怯えた目で私は彼を見つめていた。
「俺が許していない鬼と二人きりになるな」
口を開いた天鬼の声音が先ほどよりも幾分か穏やかに聞こえる。
「お前は『餌』という自覚が足りない」
「っ!」
だが、鋭い眼光が声の穏やかさを否定し、金色の瞳は私を見下ろしていた。その瞳に縛られて身体が動かなくなる。呼吸すら困難になり息が出来なくなり……。
「……つぅ…はぁ…」
不意に外された金色の瞳の視線、突如として解かれ身体の硬直。それが私の身体の異変が彼の仕業であることが理解できた。
「一度や二度だけでは足りないか」
私は視線を下げて彼の瞳を見ないようにして喉を抑えて呼吸を整えていたけれど、天鬼の言葉が耳に入ってきた。
「鬼に喰らわれかけるのは……」
何を言って…っと、声にならない問いと共に私は天鬼を見上げてしまった。見上げなければよかったと思ったところで後の祭りだろう。
「っ!」
再度、金色の瞳に捉えられる。天鬼の牙が普段よりも大きく見えるのは恐怖から?
「いっそう、喰らってしまおうか」
彼の押し殺すかのような低い声、彼の金色の視線で動けないというのに逃げられないようにするかのように強く私を抱きしめる腕。
本当に彼は私を喰らうというのだろうかと息が出来なくなって朦朧としはじめた私の意識の中で浮かぶ映像があった。
「その方がよほど……」
ぼんやりと見えるのは、赤。その赤が呼び起こす記憶。そうだ。出会いの時も、あの女の鬼の時も…――私の命を救ってくれたのはこの赤い鬼だった。