天の章 08.ささやかな疑問


「……しまった」
闇鬼、彼から逃れるために飛び出した事を私は後悔する事になった。またも無限回廊へと飛び込んでしまっていたからだ。
「夢なんだから、都合よく消えてくれてればいいのに」
先ほどは彼のお陰で出られたが、今度はどうなるのだろう。もしも、また助けてくれたとしても今のままだと気まずい。
「あっちは気にしない気もするけど……」
歩き回っても出られなかったのだし、このまま歩き回っていても体力を消耗する気がする。
「遭難した時はその場を待機が基本だったけ?」
確か、山では遭難してから下手に歩くと……あまり関係ない気もする。歩いても、歩かなくても場所は変わらないのだから。
「まぁ、座ろうかな」
私はその場に座り込む。ひんやりとした板の感触が気持ちいい。寝転がった方がもっと気持ちいいだろうか?
「ひゃっ!」
廊下に手をつく前に私の首筋に、ひやりっと冷たい何かが触れて衿を掴まれ、心臓が飛び跳ねる。
「しっ、しらくかぁ」
後ろを振り返れば白い鬼がいた。心臓の音がまだ聞こえるけれど、見知った相手であったことに一息をつく。振り返れば鬼がいた。なんて、普通なら安心するような事じゃないけど。
「何、勝手な行動をしているのです?」
名前を私が呼んだ事も気に入らないのだろう。冷たい彼の視線が私に突き刺さる。
「ひっ、暇だったから……」
私の言い訳にもならない言い訳にピクリッと眉が跳ね上がり、叱られるかと思ったのに不意に彼の眉が寄せられる。そうして、身を屈めるとその顔を背後から私へと近づけてくる。闇鬼の事もあったので慌てた私だったが、しらくの場合はすぐに離れた。
「チッ」
が、舌打ちが聞こえた。白いこの鬼が舌打ちをするとは思ってもみなかったので、私は彼を見つめる。
「貴女は役に立たないどころか要らぬ事ばかりを仕出かして下さいますね」
掴まれていた衿を放し、彼は言う。
「はぁっ?」
何故にいきなりそんな事を言われなくちゃいけないのか。勝手に部屋を出たのは悪かったかもしれないけど、そこまで言われる事じゃないと思う。
「私が運ぶ必要は無いのでしょう。早く立ちなさい」
私の疑問を挟む間も無くそう言う彼に苛立ったもの、私は大人しく従う。此処で何か文句を言ったら、しばらくこの変なところに置いていかれる事になるかもしれない。私が立つ前に歩き出していた彼の後を慌てて追う。
「部屋を勝手に出て行った事は謝るけどさ」
「そんな事はこの際、どうでもいいんです」
あれ?怒っていたのはこの事ではないのだろうか。けれど、それ以外に彼に叱られるような事は……。
「言わなくてもわかっていると思っていましたが、それは私の勘違いだったようですね。不用意に他の鬼と接したりしないように、命を失いたくもないでしょう」
なるほど、出かけた事よりも他の鬼と出会った事が悪いのか。
「あっ、うん。それはそうだけれど……そんなに怖くはなか…」
「闇鬼王と呼ばれるような相手に恐れを感じる事すら出来ないのなら、余計に関わらない事です」
私の言葉を遮って、彼はため息混じりにそう言った。
「あの人、じゃない…あの鬼……あれ?私、闇鬼さんに会ったって言った?」
思い返すと、私は闇鬼と名乗ったあの鬼の名前どころか出会った事も言っていない。なのに、しらくは私が闇鬼と出会った事を知っているのは何でだろう。
「残り香です。その香を纏うのは私が知る限りではあの鬼だけですし、そのような事を嗜みとするのもそうは居ませんからね」
「へぇ……?」
先を歩くしらくの言葉に私は解った様な解らないような。自分にそんな残り香があるのかと、自分の腕を鼻に近づけるもののよくわからない。闇鬼にそんな香りがあったのかと思い返したものの、これこれ、こういう香りとかも思い出せない。
「えっ、あっ、あれ?何で……思い出せないの?」
香りどころか顔すら覚えていない事に気づいた。男性にしては綺麗だと認識していたはずだし、出会ったのはつい先ほどだ。
急に近くにあった顔に驚いた事も覚えているのに、その相手を綺麗に忘れているのだ。どんな姿で、どんな顔をしていたのかという事を……。
「その香りは微量であり、一種の忘却作用をもたらします。貴女に出会った記憶があっても彼を覚えていないのはその所為でしょう」
「忘却、作用って何かヤバイ薬じゃないの?」
そんな香りなんて絶対にヤバイ。
「力の無い鬼や人にしか効果がありません」
……言外に貶されたような気がする。人だけではなく力が無いという鬼もって事が、人はほとんど効果がありそうだということが私だけではないという慰めを与えてくれた。
「貴方にも効果があるの?」
私の問いにピタリッとしらくは足を止め、冷めた目線を送ってきた。
「ありません。少なくとも、そんな簡単な術を跳ね返すぐらいは出来なければ鬼の王の一柱に仕える事など出来ませんからね」
鬼の王の一柱?しらくが仕えているのは天鬼のはずで、そうすると天鬼も鬼の王様?でもでも、闇鬼さんについても彼は闇鬼王と言ったし……あれ、そう言えば闇鬼さんは焔鬼王とか言ってたような。
「ねぇ、天鬼と闇鬼さんはどちらが鬼の王様なの?」
「どちらもです」
尋ねた私の言葉に彼は答えた。答えてくれたが、私には少し理解できなかったというか答えにはなっていない気がする。
此処でどちらも王様だという事について訊ねれば、彼は答えてくれるのだろうか?今の質問を嫌そうに答えた彼を見ているとそれは少しばかり都合よすぎる期待かもしれない。