闇鬼と共に入った部屋は客間のようだった。そうだと思ったのは不必要な物が少しもない。つまりは彼の部屋ではないと思ったからだ。それとも鬼という種族は趣味とか娯楽とかは必要としないというのだろうか?
現在の感覚からいくと古風な服装の彼らではあるが、それ以外は人と変わらないように見えるのだからそうではないと思うのだけど。
「何か面白い物があるか?」
穏やかな物言いで闇鬼が問う。はじめて入る部屋に視線をさ迷わせていた事に対する問いだとはわかっているが面白い物はなかった。
「いいえ、特には」
首を振って正直に私は答える。問いはしたが彼にしてもそれについては興味がなかったのか、それ以上は何か言うこともなく彼は座った。
「……」
沈黙が痛い。名を知っても見知らぬ者という事には変わりはなく、共通の話題は見つからない。……いや、華姫というのが何なのかをまた訊ねてみようか。けれども、自分がそれであると彼が言うのならば、華姫というのがあまり良い意味ではなかったとしたらとっても嫌だ。
「……」
闇鬼へと視線を向けると彼の視線と合ったが、その漆黒の瞳の深さが怖くなり、私は慌てて視線を下に向けてしまった。
彼が酷いことをしたわけではないのに、彼が怖いと感じてしまうのは何故だろうか。お互いに無言なのは息苦しく、視線を下に向けたままに私は何か喋ろうと口を開く。
「あのっ、部屋に戻ろうかと思うんですが……」
よく考えなくても黙って出てきたのだ。すぐに戻るつもりであったから、しらくには見つからないと思っていたけれどこのままだと知られて何か言われそうな気がする。
何というか勝手に出かけて親に怒られるようなノリではあるんだけど、ちょっと自分の命を掛かっているような気もしないでもない。
「戻るのはそなたには無理であろうな。呪が施されている」
「……」
しゅ、というのが何なのかよく解らない。ただそれは私をあの無限の回廊に閉じ込めていたモノなのだろう。
「あの、帰れるようにしてもらえますか?」
初対面の相手に頼むのはどうかと思うけれど、このままだと戻れない。先ほど座ったばかりの相手は私を一瞥し。
「忙しない事は嫌いでな」
薄っすらと口元に笑みを浮かべ、彼は告げる。頼む事をしたのは私だから断られることは予想していたけれど笑顔の元で断られるとは思わなかった。それに、少しぐらいは考えてから断ってくれてもいいじゃないかと不満に思う。
「華姫は我に用があるのか?」
「えっ?特にはないんですけど……あの、それと私はですけど。闇鬼さん」
闇鬼を知らず知らずに見つめていたらしい、その理由を彼は私に聞いてきたけど、あまり意味がなかったし、意味がわからない『華姫』という呼び方は気持ち悪いので再度の抗議をしておく。
「今回の華姫は恐れを知らぬ。我に名を呼ばせぬ方がよいぞ」
「何で、ですか?」
名前を呼ばせないほうがいいとは意味が解らない。
「名はそなたを縛るがゆえに……」
説明をしてくれたのだろうその言葉も意味が不明だった。名を呼ばれることで縛られるのだろうか?
「それならいいです」
よくわからないが、どうしてもっと強要するような事ではない。
「不満そうだな。」
「……っ!」
闇鬼が何処か楽しげに私の名前を言う。その瞬間、ぞわりっと背筋が震えた。
闇鬼への恐怖が為に?……違う。これは、歓喜だ。ただ名を呼ばれたというだけの事に私の身体が喜びに震えている……。
「そなたが、もう少し神通力を磨いておれば抵抗も出来ただろうに」
彼の口調も態度も特に変わりはない。なのに、闇鬼の声がまるで最上の蜜のように甘く、そして私にまとわりつき、私の思考がかすむ。その場に立ち止まり、動くに動けないでいる私の近くにいつの間にか彼が居た。
「少しばかり、味見をしようか」
彼の指が頬に触れ、耳元でささやきが聞こえる。ぼんやりとした私の思考に入ってきた言葉……味見?また、私は……
「……いっ、いやぁっ!」
言い知れぬ恐怖に何故かかられて、私は無意識に身体を動かす。パンッと乾いた音の後に私の右てのひらがじーんと痺れたのは、目の前にあった何かを私の手のひらが叩いた結果だ。
「……」
闇鬼の左頬が私の視界に写る。本来なら届くはずのないそこにどうして私の手が届いたのだろう。
……私が瞬きをしている間に闇鬼が屈んでいた身を起こすと、私を見下ろしていた。
「ごめんなさい」
その視線に思わず、後ずさりをしつつ謝った。よく解らないけど、闇鬼の頬を私は叩いていたんだから謝らないといけないだろう。だけど、彼からの返答はないのが怖い。私の行動に怒りを覚えたのだろうか?
どくん、どくんっと私の胸が鳴る音が私自身もわかって、私は不安のあまりにギュッと手を握り締める。
「我の魅了に抗う、か……特に何かしたわけでもなかろうに、華姫たる素質は高いのかもしれぬな」
顔に掛かっていた髪を軽く手で払うと彼は私が叩いた頬に指を這わせ、私を見つめながら言う。
「よい。だが……次は、許さぬぞ」
「……」
その視線に射竦められて、私は頷いて。
「そっ、それでは失礼します」
頭を勢いよく下げると襖を開けて部屋を飛び出した。そんな私の耳に、低く笑う闇の鬼の笑い声が届いた…――