屋鳥の愛

本編 〜11〜


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今の私はその音を聴きたいと思えば遠くの音もはっきりと聴こえる。空を飛んでいる小鳥の羽音を地上から聞きとるほどだ。しばらくは聴こえすぎる音に乗り物酔いのような症状が出ていたけど、それも二週間程度で落ち着いてきて、その頃にはこの耳の便利性はありがたいものだとは少しは思うようになった。
この部屋に食事を持ち運んでくる女性の足音が聞こえれば近くの庭に出ていようとも部屋の中で待つことが出来る。そして、彼女がいつも告げる『食事』だとかそう言った単語は何となくわかるようになった。
彼女は言葉もわからない胡散臭い女である私に笑顔で接し、いつも声をかけてくる。その中に食事以外にもよく出る単語が幾つかあるがそれについてはよくわからないものの、名詞っぽいとかそういうものがわかるようになったのはこの耳のおかげだ。ただ相変わらずに言葉はわからない。わからないがわからないのならば学べばいい様な気がしてきた。
英語などでもヒアリングが大切だという事を学校で言われていたし、ヒアリングが大事なのは中国語だろうとフランス語だろうと一緒だと思う。私は大切なことをクリア出来ている。そんな風に思い始めたからかもしれない。私は耳に入った言葉を意味が理解できなくてもきちんと聞くようになった。ただ聞き流すのではなく人の話に耳を傾ける。当たり前なはずなのに当たり前でなくなっていたことを私はやっと思い出した。そんな変化を感じ取ったのか私に食事をいつも運んできてくれる彼女は言葉が通じないながらも少し手を休めて私に話をしてくれる。
花が咲いた枝を持ってきてくれた時には庭の方を示しながら…――その様子できっと庭の木に花が咲いたのだろうと推測できた。だから、次の日には私は庭を歩いていて花を咲かせた木を見つけた時は嬉しかった。何かが通じたような気がして。そして、諦めなくてもいいのかもしれないと思った。帰れると思った次の瞬間には帰れないかもしれないと言われたことで帰ることを諦めていたけれど、諦めなくてもいつかは帰れると信じよう。
もちろん、ただ帰ることに必死にしがみついていても仕方がない。悲劇のヒロインを永遠に続けても仕方がないと思う。
絶望に狂えなかったら進まなくてはいけない。そう考えると狂えなかったのはいいことなのか悪いことなのかよくわからないけど、開き直って、無意味に悲劇のヒロインを気取っていることをやめた私は屋敷の中を自由に歩き回ったが特に咎められることはなかった。台所と思われるところで料理を作っているところに居合わせたらそれを眺めたり、刺繍をしているらしいところに居合わせたらそれも眺めたりした。刺繍のほうはいつも食事を運んでくる女性がしていたので必要以上に眺めていたら笑顔で針と糸と布をくれた。貰ったからにはやってみないといけないだろうと思って、その場で試してみたけれど出来上がったのはネコともクマとも見える不思議物体。
図案もなく見事な腕前を披露する彼女に見せるのはかなり勇気が必要だったが一応は見せた。彼女も私が何を刺繍したのかはわからなかっただろうに褒めてくれた……ように思う。それから彼女は私にまた色々と話しかけてくれたので、私はまるで親の後をついて鳥の雛のように彼女の後をついて歩いた。
最初の頃は何もさせてもらえなかったがしばらくすると彼女は同じ事をさせてくれ、そうすると私の手はすぐに荒れてきたがそれに気付いたのか彼女は私に軟膏をくれた。私は彼女、暁琴の名前をついて歩くようになって覚えたころ、私も彼女に名前はだということを伝えることが出来た。そんな生活をひと月ほど続けていた。
そして、今日は屋敷の主が珍しく休みなのか昼にその姿があった。彼の家なんだからそれが悪い事ではないけれど、良くも悪くもいつもと違う雰囲気に屋敷は包まれている。無口であってもやはり主人がいるといないとでは大違いらしい。暁琴の忙しそうな様子を見て今日はついて行くことをせずに朝食の後は大人しく与えられた部屋の中で過ごしていた私の耳にノックの音が聞こえた。訊ねてくるのは暁琴しかいなかったのでいつもの調子で「はい、どうぞ」と日本語で招き入れたが入ってくる気配がない。不思議に思って私が扉を開けるとそこには屋敷の主の姿があった。
『「…………」』
お互いに無言で見つめあっていても仕方がないと私は彼が扉から部屋に入れるように下がる。
「どうぞ」
彼を身振り手振りを交えて招き入れると理解してくれたのだろう。部屋の中へと彼が入ってきたので唯一ある椅子を今度は示したが座ってもらえなかった。この屋敷の主人であるだろう周泰が座らないのにお世話になりっぱなしな自分が座れるわけがない。何をしにきたのかと彼を見ていると彼もまた私を見ていたけれど、彼は口を開き。
『……明日…城へ……連れて行く…』
彼の言葉は聞き取れはしたけれど意味は理解できない。
『…孫権様が……様子を…みたい…とのことだ……』
続く彼の言葉も理解出来ずにただ首を傾げるだけ。どうしていいいのか解らないままに彼を見ていると周泰は背を向けた。
「あっ」
思わず声を上げると彼は立ち止まって私を振り返った。
「いえ、何でもないです」
『……』
私は慌てて首を振ってから頭を下げる。その様子に怪訝そうに彼は私をみたけれど何も言わずに出て行った。彼が何を言ったのかを知る術は今の私にはない。
「何だったんだろう」
少しでもはやく言葉を覚えよう。周りの人が何を言っているかわからないのなら、私が合わせないと。それが人との付き合い方というものだ。

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