屋鳥の愛
本編 〜3〜
席を外した周泰が戻ってきたので孫権が視線を向け。
「周泰。どうした?」
表情をあまり変えない周泰ではあるが、その表情の中に孫権は何かを感じたのか訊ねた。
その問いに答えるよりも先に周泰はこのへやを退出した時には孫権だけだったはずのこの部屋に現在は別の人物がいることに視線を向けた。この部屋に居てはおかしい人物ではなく、それどころか今回の戦の鍵を握る人物の一人だ。もちろん、最終決定権は孫権にあるのだが彼の発言力を無視出来ないことも事実だ。そして、その彼が開戦という選択を行ったのは昨夜であり、がこの地に現れたすぐのことでその為に誰も彼にのことを伝えてはいなかった。
「……件の娘は…言葉が通じません…」
空から舞い降りてきた女性と言葉が通じないという事を伝える周泰。
「件の?」
周泰は知っているだろうと気にせず報告したのだが、は赤壁のことで気を取られていたのか珍しくこういう事を聞き逃していた。誰も知らせる事がなくてもいつの間にか把握していることが多い人物であるというのに珍しいこともあるものだと主従二人はは思ったが、空から降ってきた人に比べるとそれほどでもないだろうと取り立てて気にはせず。
「あまりにも珍しいことで周喩に知らせるのを忘れていたか」
「珍しいことがあったのです」
「聞いたことも無いような珍しいことだぞ。昨日、空から人が舞い降りてきたのだがその者を周泰が受け止めたのだ」
周泰の活躍の事を思ってか孫権は身振り手振りを咥えて説明をする。彼にとっては周泰の行動は素晴らしいことと認識されているのだろう。
「空から人が?」
だが、周喩は違う。聞いただけでは容易に納得できないその言葉に眉を顰めた。
彼にとって空から人が降りてくるということも信じられなければ、それが事実だとすればそのような怪しい者を懐深くまで受け入れた様子であることもまた信じられない行為だった。
周喩が知る限り孫家の面々は簡単に人を信じるところがある。その分を周りに居る自分達が支えなければならないと彼は考えていたし、周泰もまたそのよう考えているものだと周喩は思っていた。そう二人は近しい血族ではないものの、同じ周姓を名乗る者として周喩は周泰のことを好意的に見ていたのだ。
その認識が間違いであったのかと周喩は周泰へと鋭く視線を向けた。
「……そうだ…」
周喩に見られようとも周泰の表情は変わらない。この落ち着きのほどは普段であれば頼もしく思うがこのような時には苛立ちの原因になる。現に周喩もまた微かに口元を引き締めた。
元々、曹操軍をどうするべきかということに頭を悩ませ、開戦という運びになっている今も今後のことには頭を悩ませているというのに、また問題が起きるということは彼の苛立ちを容易に掻き立てるものだった。
戦いを避けることは出来ないという事実。そして何よりも負ければ、周喩は愛する妻小喬とその姉である大喬を失う。大喬は亡くなった義兄弟の妻ということもあり、そのような事態には絶対にさせはしないと意気込む彼にとっては不安な要素は少しでも減らしたい。
「間者ではないのか」
周喩にとっては当たり前の、けれども重要な質問をする。
「……違う……」
だが、周泰はそのようなことを言われたことが不本意であったのか目を細める。その態度に孫権は気付き、珍しいと驚くと同時に興味を持った。どのような敵に囲まれても眉一つ動かさずに己を助け出した周泰がこれほどに反応する娘とはどのような娘なのか。その興味は自身にというよりも周泰の反応から引き出されたものではあったのだが、呉の君主である孫権は確かにその存在に明確な興味を抱いた。
「その証拠は?」
周喩はなおも答えを引き出そうとする。
「周喩、良いではないか。言葉の通じぬ娘であるのであれば間者にもならんだろう」
「孫権様、万が一ということがあります」
孫権と周喩の関係は少しばかり複雑だ。立場だけを見るのであれば主従関係ではあるが、周喩は孫権の今は亡き兄の義兄弟であるし、孫権自身も幼い頃から彼と接してきた為、兄孫策と同じく兄のような存在だ。そんな彼に言われれば、彼の言葉どおりに何かした方が良いかとも考え始める。
「万が一など…起こりません……」
それは、がそのようなことをしないと言いたいのか。自分がそのようなことをさせないと言いたいのか。
どちらか判別つくような言葉ではなかったが、孫権と周喩は瞬時にそれぞれ判別をした。
「ほら、周泰もこのように言っている」
自分を守ると宣言されたと思った孫権が嬉しげに言い。
「仕方がありませんね」
渋々ながらもそれを周喩が頷いた。彼もまた周泰の言葉が孫権を守るという意味での言葉だと思ったのだ。周喩は空から落ちてきたというのは気になるものの、何かの見間違いか誇大表現であろうと結論付け。見知らぬ娘、一人のことに関わるよりも今は大きな問題を片付けようと気持ちを切り替えた。
「…………」
その言葉を否定するでもなく、肯定するでもなく周泰は軽く目を伏せる。
その後、孫権と周喩の二人は次なる戦いについてを話し合うことにした。その話し合いは最終的には戦は周喩の策を全面的に指示し全軍が彼の指揮に従うということになった。これは最初から判っている結果であれども話し合うということは大きい。孫権の決定を得ずに周喩が勝手に動き、勝利したとしてもそれは国を乱すことになる。重々にそれを解っている二人だからこそ、この話し合いをしたのだ。その話し合いの間も寡黙に控えていた周泰は己が何をしに戻ってきていたのかを忘れてはおらず、周喩が席を辞したのを待って周泰は口を開く。
「……孫権様…」
「何だ。周泰」
名を呼ばれて、孫権が周泰へと視線を向ける。
「彼女の…処遇を……」
周喩がいなければすぐに伝えるつもりであったことを周泰は話し始める。
「おお、そうであったな。何かよい案があるか?」
二人の話し合いを聞きながらも周泰は娘の処遇について自分なりに考えていたこともあり、頷く。
「娘を…屋敷に……」
その言葉だけで孫権は周泰が何を言いたいのかを理解する。付き合いが長いので、ほぼ単語だけの周泰の言葉を理解できるようになったことが密やかな孫権の自慢である。
「お前の屋敷に迎え入れるのか?」
「……はい」
孫権が自分の意志をきちんと汲んでくれたことに周泰は安堵しながら同意を示す。言葉を通じぬことの不安はあれども、周泰にとっては多くの人よりも問題とは感じなかった。彼女が覚える気があれば教えればよい。もしくは身振り手振りで意志を示してもよいだろう。それは言葉を操ることよりも、少しは容易いかもしれない。
言葉数が少ないということで人に誤解されることもある自分だからこそ、周泰は無理に話させたりしたいとは思わない。
「しかし、お前の屋敷には奥方がいないだろう?」
客人の世話は主に女主人の役目だ。その役目をするべき者がいないということを示す孫権に周泰は静かに。
「…信頼出来る者に……」
言葉数が少ない主人だというのにきちんと仕事をこなす者がいる。その中でも一握りの者は最早、家族と呼べる程に信を置いている。
「ふむ、そこまで言うのであれば娘の処遇はお前に預けよう。娘の命を助けたのもお前なのだからな」
人の命を救えば、その命の面倒をみるということだ。それを周泰は文字通りに行おうというのだから、それを褒めこそすれ断る理由は無い。男の屋敷に若い娘となると人の評判という物もあるのだが、城でこのまま世話になるよりは人の好奇の目も少なく良いことかもしれないと孫権は判断した。人の好奇は時として恐ろしい事態を招くものだからだ。
「…御意……」
目を伏せて、頭を下げる周泰。それを孫権は微かな笑みを浮かべて見つめつつも、己の中にある娘への興味が満たされないかもしれないことを残念に思った。周泰の屋敷に行けば、あまり会えなくなるだろうと……。