屋鳥の愛
本編 〜1〜
独特な香り。それは漢方薬を売るお店の前で嗅いだ事がある香りだ。だけど、自分の部屋の中がそんな香りに包まれているのかが理解できない。誰か知り合いに漢方薬とか中国のお菓子とか貰ったことがあったかとぼんやりと考える。その香りが嫌いだというわけではないものの、嗅ぎ慣れないその香りに気付いた今は眠り続けることが難しく私はまだ眠っていたい気持ちをこらえて眼をあける。
『おや、気付いたか?』
男の声にそちらへと視線を向けたが、見覚えのない40代ぐらいの男が立っていた。自分の部屋に居るわけがないと思わず眼を擦ってみるが相変わらずにその男性を目は認識していた。いや、それどころか自分の部屋でもなかった。
「誰?それに此処は何処なんですか?」
日本人ではないとは思うけど私は日本語で尋ねた。彼が発した言葉は日本語ではないし、彼の顔立ちは日本人ではない。肌の色を見れば日本人と同じ人種であるとは思うけど。
『何だって?』
もちろんというか。そんな相手に日本語で話しかけても解るはずはない。それに私は気付いてはいたものの、気付いていたからと言って何とかすることも出来ない。何故ならば自分は相手の『言葉』が判りはしても解らないのだ。
「たぶん、中国語よね」
そうであることは確実な気がした。中国語と判っても知っている言葉はありがとうの『謝謝』やこんにちはという挨拶ぐらい。この世の中、挨拶だけで過ごせるほどに甘くは無い。
『もしかして、言葉が通じないのか?これは困ったぞ。このような事を何方に相談すればよいものか!』
男性が唸り声をあげたので驚いてしまった。でも、言葉が通じず、相手が何を思っているのかということを理解できないことは居心地が悪い。それに、どうして見知らぬ人間と共に私はこの部屋にいるのかの答えが出ない。
悩みだけが浮かび、相手が危害を加えようとしているのか、していないのかという確信すら持てない状態に思わず涙が出てくる。
「いっ、一体なんなのよぉ」
どうしてこんな事態になっているのかと頭の中で色々と考えているものの、納得出来る答えは見付からない。混乱した私を見つめる男にも焦りの表情があるが二人のうちでどちらが落ち着いているかと言えば男の方だ。
『仕方が無い。周泰殿にお知らせしよう』
彼は何事か述べて私を見ると穏やかな声で言う。
『落ち着いて、この部屋にいるんだ』
今のところ危害を加えるような様子は男にはなく、男自身は部屋から出ていった。扉は閉められ、足音が遠ざかる音が耳へと入ってくる。そして、今は部屋の中に一人取り残された。
私は男が消えた扉をじっと見つめる。
「私、誘拐された?」
ニュースで色々とそういう話は聞き、近頃は物騒になったものだと他人事の様に考えていた。自分や周囲の人間が巻き込まれない限り、それは遠い出来事だった。
「でも、それにしては様子が変だし」
自分を拘束している様子はないこと、男は私が『日本語』を話すという事を想定していなかったと思われること。何より、男の格好が日本はもちろん中国でも今は着られていないだろう昔風の服を着ていたことなんて変だと思う。
気付いた時は見知らぬ部屋、そして見知らぬ男が居た事もあって冷静に考えられなかったが、男が部屋から出て行ったことで不安はあるものの一応、私は落ち着きを取り戻した。
「危害を加えられた様子も無いのよね」
自分もまた男と同じような服を着ているので、意識を失っている間に着替えさせられてはいるけれど痛みなど身体の違和感は無い。では、私はどうして此処に居るのだろうか。
「ドッキリとか?」
希望的な考えを口に出して言ってみる。そういうような考え方が出来る自分にある種の安心感がでる。
「もしかして、私がどうするか反応を何処かで窺ってたりするのかも」
違うのだとしてもそう思うことで一時的に考えを逸らす。誤解だとしてもただ混乱しているよりはいいのだろう。
「靴は……」
眠っていたベットらしきところから降り様として靴がない事に気付く。
室内ではあれどもカーペットもなく、フローリングでもない場所に足を下ろすのを躊躇う。何か無いかと辺りを見回したものの……。
「ないなぁ」
見当たらずに諦めて、そのまま素足で降りる。足の裏に感じるのは砂だろうか?ホコリっぽい感じがする。このような部屋に寝かされていたことに不満を感じた。
「女性をこういう部屋に寝かすのはどうなのかな」
別にレディーファーストしろっとまでは言わないまでも、もう少し考えて欲しい。足の裏に感じる砂の感触に不快感を持つ。夏の砂浜で歩くのとは訳が違うし、何よりも足の裏に感じるのが気持ち悪い。
「靴ぐらい置いといてよね」
文句を言う事で自分を奮い立たせる。怯えを自分自身に見せれば気力はすぐに消えてしまうだろう。
強く打ち鳴らす鼓動を鎮めるように呼吸をいつもより遅く深く繰り返しながら男が出て行った扉へと近付く。
扉の前に立つと扉を開けようと手を伸ばし…――
「うわっ!」
扉に触れる前にその扉は開いた。まさか自動ドア?と考えた次の瞬間には扉の向こう。つまりは部屋の外には先ほどの男とは違う見知らぬ男が立っていた――…だけど、何故だか知っている気もする。