屋鳥の愛

序章 〜2〜


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世は乱世、多くの英雄を生み、その命を散らす時代。その乱世の世で呉という国は揺れていた。
大国と呼べるほどに大きくなった国、魏と開戦するべきかどうかに揺れているのだ。そして、戦うにしても蜀と共に魏と戦うべきか否かなど、その判断をするべき者は若き君主孫権であるが、彼の亡き兄孫策の義兄弟周喩の言葉も大きい。
けれども、その揺れの中であっても揺れぬ男が一人。姓は周、名は泰、字は幼平。呉の武将である彼は己の考えを言葉という表現方法ではあまり表さない男であるゆえに彼の行動こそが彼を表す。無言実行の男であるがそれを気に入り、また命を救ってくれた素晴らしき将である周泰に信を置く孫権は、護衛として彼を置いており今も庭へと共に出ていた。
城の中といえども安全ではないこの世であっても、周泰という男が守っているのであれば案ずる事はないという安心感を孫権に抱かせてくれる。だからこそ、孫権は他の供を退けて周泰と共に気分転換として庭へと出ていた。そして、しばらくは普段と変わらなく無言で控えていた周泰ではあったが、その視線が何故か一定のところで止まっている。
「如何した?周泰」
それに気づいた孫権は珍しいと思い周泰に訊ねた。
「孫権様……空に何か浮かんでおりませんか?」
周泰の言葉に孫権が空を見上げる。彼が見ていた方を見れば確かに何かが浮かんでいるようにも見える。飛んでいるにしてはその場から動いていないように見えるのだから、鳥ではないだろう。
「あれは何だ?」
周泰が何かと言った理由は解ったが孫権は思わず呟いてしまう。
「……わかりません……」
それに律儀に周泰が返事をする。孫権とて答えを求めたわけではないが二人して何時までも空を見上げるわけにはいかないだろうと判断を下し、何が浮いているのかわからない現状では屋根のある場所に移動しようと孫権が告げる前に周泰が空を見上げつつも数歩歩いた。明らかにその視線は空を見ている。何か動きがあったのかと孫権が再び空を見上げると空に浮かんでいた何か……いや、それは何かではなく人であり、また浮かんでいるのではなく、どうやら落ちてきている。
「周泰っ!」
何故、周泰が動いたのかを理解した孫権は彼の名を呼んだ。周泰を止めるつもりだったのかは彼にもわからない。また止めたところで遅かっただろう。孫権が名前を呼んだ時には周泰は庭にある池に飛び込み、空から降って来る人影を受け止めようとしていたところだった。腰まである水に少し動きを取られた様だが無事に人影を周泰は受け止めた。
「周泰、大事無いか?」
あれほどに高いところから落ちてきた者を受け止めたのだ。孫権は心配し、声をかける。
「……孫権様…」
けれど、言葉を返した周泰の声は多少の戸惑いは含んではいたもののいたって普通である。痛みを堪えている様子でもない事に孫権は安堵の息をついた。
「先ずは池より上がれ、そのままでは流石のお前も風邪をひく」
「…御意……」
孫権の言葉に頭を下げてから、周泰は池から上がる為に移動した。彼の身体的能力であれば抱えている人物を地面に下ろせば何処からでも上がれたのだろうにそれを躊躇ってか抱えたまま上がれるように足場を確かめ、また慎重に池より出る。
「その者は生きているのか?」
周泰が池より上がったので孫権にも空から落ちてきた人物が女性であることが見て取れた。天より人が落ちてくるというはじめての事態に戸惑ったが、相手に意識が無いとあってはどういうことかと本人問い質すことは出来ない。
「……生きて…いるようです……」
周泰の言葉に孫権は頷いた。常識として考えるのであれば生きてはいないだろう高さから落ちてきていた彼女は見たところは怪我ひとつしていない。
「しかし、気を失っているようだな。典医に見せねばなるまい」
寡黙ではあれども何をするべきかを普段は理解している周泰だが、何故か今はその反応は遅い。
「…………御意」
いつもよりも少し遅れたその返事に孫権が周泰に視線は送ったものの、すぐにその思考は急に現れた女性のことを考える。これから何をするべきかということを考えながらも、孫権自身もまた普段とは違う己を自覚していた。急に天より人が現れたという驚きだからか気分が高揚しているのだ。まるで、幼い頃に尊敬する父、兄に褒められた時の様に。
孫権の理性は困った事態になったと判断しているというのに、おかしなことである。
「…孫権様?……」
「なっ、何だ?周泰」
周泰から名前を呼ばれて孫権が訊ねる。
「……此方…では…?…」
いつの間にか曲がらなければならないはずのところを真っ直ぐに歩いていたらしい。
それを孫権は指摘され、孫権が確認すると確かに曲がるべきところを真っ直ぐに歩いていたようだ。
「そのようだな」
孫権は今度こそっと典医の元へと急ぎ歩き出す。その後ろで周泰が己の腕の中の女性に心配げな視線を向けたことを呉の若き君主は知らなかった。

この呉国の生まれではなく、それどころかこの世界の理の外で生まれた存在である彼女の名、姓は、名はという。
彼女の目覚めの時までは少しばかり時を要するのだった。

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