屋鳥の愛
序章 〜1〜
ひゅう
風音が暗闇に響く。手を伸ばしてもその手すら見えない暗闇。
動かなければすべてを飲み込んでしまいそうな暗闇の中、私は必死に歩き、この手を伸ばす。
ひゅう
近くて遠い風音が無気味に聞こえる。どれだけ歩いても風音は何処から聞こえてくるのかが解らない。そして、風の音が聞こえるのであれば何処からか風が吹いているはずなのに私自身が風を感じてはいない。ただ音だけが闇の中を渦巻いている。
「……っ!」
声にならない叫びをあげて私は目覚めた。びっしょりと寝汗をかいたパジャマは身体に張り付いていて気持ち悪い。
辺りを見回せばよく知っている自分の部屋のベットの上で、自分が今まで悪夢を見ていたらしい。
「嫌な夢」
夢見の悪さに苛立って布団を乱暴に跳ね除けて起き上がり、顔を洗う為に洗面所へ向かう。洗面所にある鏡に映った顔はお世辞にも褒められたものではなかった。余計に気分が悪くなったので深いため息をついてしまった。その後で顔を洗い、歯を磨く。朝食は夢の為に気分は乗らないけど、一応は食べておこう。今日は気力を使う予定だ。
今日も毎日繰り返していたこの一連の行動だが、この日は少しだけ違う。いつもは入っていない物を私は会社へと持っていく。それは前日の夜に書いた一通の退職願、学校を卒業してからすぐに入った会社を私は辞める。
止める今でも会社のすべてが嫌になったわけでもないが「まだ大丈夫」を言えるうちに辞めなければ心に深い傷を負うと思っての判断。
「仕事もそこそこ慣れたのに」
一通りの仕事をこなせる様になった頃に辞める。会社にとっても多少は損失かもしれないが、自分にとっても損失だ。退職願を出すとは思ってもいなかった。一生働くつもりだったかと言われればそれは疑問ではあるけど会社に入社した時にはこんな結末を考えていなかった。
「あぁ、会社に行きたくないな」
それは逃げだと自覚している。だからこそ行かなければならないとも考えている。でも、正直なところはやはり行きたくはない。
ため息をまたついた後で着替えをしなければならないと立ち上がり、のろのろとした動作で着替える。そして、今度は化粧、鏡に映った自分自身の顔色が優れない様子に今度は笑ってしまう。
「あぁ、不細工」
こういう優れない顔色でも儚げだと思われる人はお得だ。そんな風に考えて、まだそんな風に考えれる余裕が何処かにある自分にまた笑う。化粧をきちんと施せば顔色の悪さも少しはよくなったように見えた。
「よしっ、出掛けよう」
自分に言い聞かせるように言って立ち上がった。退職願をすぐに出せるようにと鞄の外側のポケットに入れた後に玄関に出て靴を履く。そして、ドアを開けて一歩踏み出した。
ひゅう
風が鳴る。
何処かで聞いた事があると思った時にはその足元には何もない空間、ただ暗闇だけが広がっていた。
何が起きたのか理解できない私が、足場が無いのだから立っている事は出来ないのでは?そう認識した時、バランスを崩してドアの外へ暗闇へと落ちていく。私は玄関へ戻ろうとそちらへ手を伸ばしたが、その手は届かずに私の目に鞄のポケットから退職願と思われる白い封筒がヒラリッと出て玄関に取り残されたままになったのが見えた。そして、ドアは緩やかに動いて閉まっていく。きっと、いつもの様にカチャッという無機質な音と共にドアは閉まったことだろう。
ひゅう
風の音が響く暗闇の世界。
その世界を私は落ちていく。
ただ落ちていく。