天の章 00.序章


夏の休みの日、外に出ることもなく家でゴロゴロと過ごしていた私は唐突にアイスが食べたくなった。生憎と私の家の冷蔵庫にはアイスのストックが今はなく、ないとなれば余計にく食べたくなるのが人間というものらしい。
暑くて外に出る気力も無かった私ではあったけれど、どうしてもアイスが食べたくなり我慢が出来なくなって外に出ることにした。
外に出れば夏の熱気でアスファルトの地面が揺らめいていて、とても暑いのだと見ているだけでわかった。
私はそんな暑さの中を日傘も帽子もなく歩きだして5分ほど経った頃に近所のコンビニに行くだけだからと日焼け止めクリームまで塗ってこなかったのは考えなしだったと反省することになった。
暑い。という一言さえもが私の気力を奪う事は必然なので文句を呟いたりせずに私は2本の足を前へ前へと進める。そうして、歩いていくうちにゆらりゆらりと揺れる風景に重なるように黒く蠢く何かが見えた気がして足を止めた。その蠢く何かと私は確かめようと目を細めた。
最初は気のせいかと思っていた黒く蠢くソレは海で揺られている海草みたいにゆらゆらしていて、ソレが何なのかと私には理解出来なかったがずっと見つめいるとその揺れる一つ一つは子どもの手足に見えてきた。そんなはずはないと瞬きした私の目に蠢く影が大きくなっていくのが確認できる。
「何、あれ?」
震える声で呟くと息が白く吐き出された。先ほどまでの暑さが嘘のように周囲の温度は下がっていたし、その寒さに私の身体は震える。いや、その寒さ以上に私を震えさせたのは先ほどまで何かわからなかったソレだ。今でも正確なところはわからないソレだったけれど触れてはいけないものだと気づいた。
不味いと私の中の何かが警告を鳴らす。アレから離れなくては……と、私がやっと考えついた頃にはソレは私にだいぶ近付いて来ていた。アレに掴まったら終わるのだと私は奇妙にも確信を持った。自分の人生の終焉すらも予感させたアレに背を向けて私は逃げ出す。遅すぎる逃走だとはしても私の本能はアレから少しでも離れようと足を必死に動かす。
走るスピードが落ちないように振り返ってはいけないとは思いつつも私は後ろが気になって何度か振り返った。ただ蠢いているだけのはずなのに振り返るたびにアレは徐々に私に近付いてきて居るように見える。気のせいだ気のせいだ気のせいだ気のせいだと繰り返し私は自分に必死に言い聞かして、もう振り返らないで走る。次にアレを見たらもう走れないような気がしたからだ。
「……はっ……はぁっ……」
本能のままの逃走は息が切れてきたことで終わりを迎えようとしている。私はどれだけ走っただろう。そして、この道はこんなにも真っ直ぐに走れただろうか?この時間に車も人も通らない道だっただろうか?
チラリッと私の思考に浮かんだ疑問に答えを見つける前に自分の足が絡み転倒した。咄嗟に手をついて酷い怪我をしないようにしたものの怪我をしたか確かめることもせずに慌てて反転して後ろを伺った。
――…振り返ったりしなければ良かった。もう目前まで迫っていたソレ等は……そう、ソレは個体てはなく複数の5,6歳の子どもと同じぐらいの醜い生き物だった。
ソレに怯えながら私の思考の片隅は考える。コレは何だろう?っと。あぁ、そうだ。本か何かで見た事のある餓鬼という想像上の存在に似ていると答えを出して、そんなはずは無いとその答えをすぐに私は否定する。だって、こんな生き物が居るはずはない。
「……ひっ!」
今まで見たことも無いソレに呆然と視線を注いでいた私の足首をその細い手が掴む。居るはずのないその生き物が私の足を掴んだのだ。ありえない。
ありえないはずなのに捕まってしまったということに私の思考が暗くなり、今の状況から逃れようと考えるよりも先に諦めが私を支配する。ありえないことが起きた時にどうすればいいのか思いつかず、心の底から感じる恐怖に意識を手放しそうな私の視界の隅で何かが動いたと思ったときには私の足首を掴んでいたソレの腕が落ちる。
耳障りな醜い悲鳴と共に餓鬼に似たソレ等が後ずさった。私へと近づいてきていた時よりもその後ずさり方は俊敏で纏まりがよい様は群れを作る魚と同じように一つの意思によって支配されているかのようだった。そして、私とソレ等との間に人影が割って入った。視線を上げると目に映える鮮やかな赤い髪を長く伸ばした和服姿の男性が確認できた。
大きいというのが私が彼に抱いた最初の印象。倒れ込み仰ぎ見ているからだけでなく、実際にもとても大きいだろう彼は……。
「去れ、これは俺の獲物だ」
まさに堂々、朗々とした調子で言い放った。餓鬼に似たソレ等はその一言で蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い。その様子は先ほどまでの私の姿を見ているようでとても滑稽な気がするが実際のところは私は愉快な気持ちには少しもならず、ただ安堵だけが湧き上がる。
急に現れた男性は逃げ出し姿を消していくソレ等から目を離して振り返る。
目が合った。彼の瞳は金色という見たことも無い色でとても綺麗だった。だが私はこれ以上その瞳を見続けることは出来なかった。
「……」
今までの理解できない現象が一段落ついたと感じたことで何とか繋がれていた私の意識が薄れていったから…――