眠りの惑い


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いつの間にか平原に流れる川の川辺に立っていた。川に流れる水音が聞こえるというのに静寂さを感じさせる空間。
見渡す限りの平原には風で揺れる草以外に動くものはなく、ここには私以外の生の存在が感じられず私の心のうちに焦燥を抱かせる。
「何故、此処に居る」
どうしてこんなところに私はいるのかという考えを音としたのは私自身ではなかった。
「ヒュプノス…様?私はいつのまにか此処に居てどこに居るのかわからないのです。一体此処はどこでしょうか?」
この場の静寂を破ったのは突如として現れた眠りを司る神ヒュプノス。そう思ったのはよく似た双子神である死を司る神タナトスよりも落ち着いた物言いに聞こえたためだ。
もしかしたら間違っているかもしれないけれど一度だけそれも短時間の謁見だけで見分けるのは難しいのだから、間違ってもきっと許してくれるはずだ。
冥界の出張後に星矢から訊いた話だとタナトスだったら、問答無用でふっ飛ばされそうな気もするので何かあったら逃げれるように心構えをしておく。
「此処はレテの河が流れる場所」
レテの河と眠りの神それらのキーワードから浮んだのはカミュに教えられた冥府の話の転生の前に飲まされるという忘却の水のこと。
輪廻転生、人の魂は死した後にまた世界に生まれ変わるが前世の記憶がないのはこの川の水を飲むからだという。
「ここは冥界なのですか?」
「そうだ。ここは正確には冥府の外側となるがな」
目の前の相手の動いた視線を先を見れば川向こうで、そちらに冥府があるのだろう。つまり自分は正確には冥府とはいえないところに居るらしい。
本当はただの夢だと思いたいけれど目の前に居る存在が本物であることは感じる小宇宙で理解出来てしまう自分が嫌だ。
とはいえ、通常ではいけないだろうだろう場所に居る時点で死に掛けてたりするんじゃないだろうか?
「戻らなければ……」
臨死体験とやらをしているのなら意識を戻そうと気合いを入れる私の前に浮いていたヒュプノスが降り立ち。
「地上に戻るというのなら手を貸してやろう」
「ありがとうございます。ご助力に感謝いたし……あっ、あの」
伸ばされた相手の右手が左頬に触れ、指で頬を撫でられる。
さすがは神というべきか人外な美貌の相手は笑いもせず無表情に触れたまま。
「生きてはいるが肉体と魂の繋がりが細い」
肉体と魂の繋がりが細いという言葉に心当たりがありすぎる。この身体になって数年経っていたとしても私はこの身体の主ではない。
前世を思い出して過去のことを忘れてしまったのではないかという都合の良いことも考えたことはあるが、それは違うと妙な核心を持っていて。
「そなたは死に近い者であるようだ」
冥府の神様からの嫌なお墨付きに引き攣りそうになる頬を堪えて心の中でクールになれと呪文のように呟く。
「死に近い?」
肉体と魂が別人なのでその繋がりが細いというのなら納得するが死に近いとはどういうことだろうかと問う。
「眠りによって魂が肉体より離れたのだろう」
幽体離脱という言葉が浮び、それで冥府の近くまで来るとか遠出しすぎだ。自分。
そもそも繋がりが細いのがダメなんだろう。肉体と魂の繋がりってどう強化するというのかと考えてから元の自分に戻るためには繋がりを強固にしたらダメじゃないかと思い当たった。
別のアプローチとして今回のように魂が変なところにいっても、元の身体かこの世界の身体に戻れるようにしておけばいいんじゃないだろうか。
「肉体を意識すれば戻ることが出来ますでしょうか?」
いまだ触れてられている頬を意識しないようになるべく落ち着いた声を出して眠りの神へと教えを請う。
今後のためにも教えて頂けるとありがたいので、期待を込めた眼差しを送る。
「そなたが何もする必要はない……瞬きの間に戻してやろう」
無表情だった相手の表情が変わる。
微笑まれたと認識した私の意識はそこで暗転した。



昨夜、眠ったままの行儀が良い状態の身体にまさに死んだように私は眠っていたのだろう。
「そういえばお礼言ってない」
死に近いとか聞きたくないことも言われたのは確かだが、助けてもらったのは事実なのだ。
彼のためにお礼変わりにお祈りでもしようかな?一応はアテナに仕える聖闘士がそれはまずいか。
怖いから使者が来た時には普段は近づかないんだけど次に冥界から使者が来たときにでもそれとなくお礼でも言ってみよう。
それとも沙織さんに今日のことを言っておけばお礼とか伝えてもらえるかも?
沙織さんは星矢達の治療をしてるから好意的だし、アテナでなく名前で呼んでもいいと言ってくれたし。
年下なのに恐ろしいほどのカリスマっぷりに思わずさん付けしてるけど、見た目はともかくとして中身は同じ女として彼女とは仲良くしたいのだ。
聖域の女官方は年若い子ほどこっちを男として意識してるみたいだし、ある一定以上の年齢のお姉様方は女官としての立場を崩してくれない。
日本に居た頃は看護士さん達に可愛がられつつ、道行くお嬢さんに逆ナンされたり、男としてだけど女の子とお喋りしていたのに。
沙織さんに会ったら日本に行っていいか聞いてみようか。聖域からの召喚状を受け取ってすぐに戻ってきたので日本で借りている部屋はそのままだし。
冷蔵庫が樹海になるのは嫌で長期保存が出来ない野菜などはご近所さんに配ったりして残してないけどさ。
もう日本にあまり戻れないのなら解約してこないとダメだろうしとまで考えたところでため息をついてしまった。
死に近いという本物の神様からの言葉に私は人様に迷惑をかけないようにしようと考え動いているらしい。
この身体はまだ十代半ばだというのに何とも妙な準備をするものだとは思うが、これからは聖闘士として派遣されることもあるのだろうから死の危険は跳ね上がる。
危険な任務を割り振られる前に聖闘士を円満に引退できる方法とか書かれた本とかあるといいのに。
そんな無駄なことを考えながら鍛練のために着替えるのが今の私の当たり前なことに何だか泣けてきた。





ヒュプノス視点

地上へと人間の魂を導き終えるとエリュシオンへと戻る。
自らの管轄で感じた覚えのある小宇宙にレテの河へと飛んだが使者として冥界に来た時とは違う迷い子のような視線。
一瞬前まで触れていた頬の感触が残る手へを見つめ、どこか熱を帯びた視線に戸惑いを覚えたのは何故なのか。
「ヒュプノス」
思考に惑う私の耳に届いた声に視線を向ける。
「タナトス」
レテの河に向かうまでニンフを侍らせていたはずであったのだが今はそのニンフ達の姿はない。
「何故冥界に留めなかった」
見ていたことは知ってはいたが戻った私に問うほどに私の行いが気に入らなかったのだろう。
「あの者は聖闘士だ。還さねば地上と面倒なことになろう」
「あれは眠りたるお前に触れられた。私が触れればあれの言葉通りとなっただろうに」
タナトスの言葉に思い返されるあの者の声。『私が死の眠りに触れた時には』その死後を冥界に委ねるという神への誓い。
「ハーデス様は待つと仰っていた。それを我等が違えるべきではない」
「……」
無言で立ち去るタナトスは今回のことで妙な手出しをすることはないだろう。
「クレーターのか。タナトスにも興味をもたれるとは憐れと言うべきか」
魂だけの存在として冥界に迷ってきてしまったあの者は確かな存在感を持っていた。
幼さがまだ残る珍しくもハーデス様が気に入った人間。
触れてみても熱量を感じさせるほどに確かな存在を魂の状態でも示していたのはそれだけ小宇宙が凝縮されているということ。
地上よりも魂が形を得る冥界であったとしても特殊な事態に、私は戸惑っているのだろう。







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