水の惑い
右手の人差し指の先に水を集めて直径十センチほどの球体を作り出す。瞬く間にその球体は形を変えて小鳥の姿となると羽ばたき手から飛び立つ。
鳥は数メートル進んだ先で蒸発するようにして消えてしまうのはそれが自分の小宇宙を届かせていた限界点で、師であるカミュであればもっと遠くへと飛ばすことも出来るだろう。
再度、水を集めて先程と同じように小鳥の形を取らせて飛ばし、慣れてきたら二羽、三羽と操る数を増やしていく。
治療の合い間の休憩のため暇つぶしとしてしているが、これが難しい。当たらないように気をつけているけれどうっかりすると当たりそうになってたりする。
「何をしている?」
かけられた声に視線を向ければ仮面を外してはいるが教皇姿のシオンが居た。
こんな近くまで気づかなかったのは私の修行不足ということではなく、きっと彼の実力が高いせいだろう。
若い肉体となったので聖闘士としての勘を取り戻すためと鍛錬し、黄金聖闘士すらふっ飛ばしているらしい人なのだから。
「休憩です」
急に声を出したので小さめな声となったけれど聞こえないほどではなかったからいいだろう。
「……休んでいるようには見えん」
「そうですか?」
休憩時間なのですぐ戻れるように聖域内だけど、人気のない木々の多い場所で大きめな気にもたれかかり座ってるのだから、かなりくつろいでると思うんだけど。
「小宇宙をそのような使い方をしておればな」
彼の視線が飛んでいる三羽の小鳥を見つめていた。これは小宇宙を遊びで使うなということだろうか。
「流石は水と氷の魔術師の弟子といったところか」
小鳥達を消したほうがいいだろうかと迷っていた私の耳に聞き覚えのない言葉が入ってきた。
「水と氷?」
「カミュのことだ。あやつは小宇宙を操ることが器用なものでな。お前がしているようなことも出来よう」
シオンの手が小鳥を指差したのでその小鳥を彼の指に止まらせてみれば、意外なほど優しげに彼は微笑み水の小鳥を見つめている。
「そうなんですか」
凍気をカミュが扱うのだから、彼が水を操ってもおかしくはないのだと今まで思い当たらなかった。
「お前の操る水が冷たいのは凍気か」
「私もキグナスを継ぐ候補の一人でしたから」
私は水を操ることは出来ても凍気を操ることがアイザック達よりも苦手で、それが理由でキグナスの候補生からは外された。
カミュからそう言われた時、安堵と同時に若干の悔しさも感じたが聖闘士候補生自体を辞めさせられるわけではなかったのには落ち込んだ。
それから修行内容が水に関することに変更になったのは私の才能が氷ではなく水にありと見られたのだろう。
本来であれば凍気の使い手を育てるはずのカミュが、才能がない私を見捨てなかったのは彼の好意であったのだとは思う。
「なるほど、それゆえに無意識に込めているのだろうな」
小宇宙のコントロールが出来ていないと言われたような気がして曖昧に笑う。
「サガのことをお前はどう思っている?」
急な話題の転換についていけず、他にも何か言わないかと相手の目を見る。
「あやつがお前のことを気にしている様子があったのでな。お節介かとは思ったがこの機会に問うてみようと思ったのだ」
彼の手が下されたので小鳥を消し、他の空を飛んでいた小鳥も同時に消す。
何だか真面目な話だろうというのは雰囲気でわかるので、いつまでもお遊び感覚なことをしていたら叱られる。
「私のことを気にして?」
教皇補佐にして双子座の黄金聖闘士だという彼と個人的な話をしたことはないはずだ。
そんな彼がどうして私を気に掛ける必要があるのかがわからない。
「聖戦のことだ」
その言葉に理解した。聖闘士として女神の為の戦うことは誉れだ。それが長年の因縁の相手である冥界との聖戦ともなれば何があっても馳せ参じるものだろう。
生憎と私はそのような考え方をしていなかったので、知らないうちに聖戦が終わったことは万々歳だったのだけれどね。
「……私のことは気にする必要などありませんと伝えていただけますか。日本に居ることを私が選んだのですから」
聖戦に参戦するようにと言われたとしたら私はどうしただろう。殺し合いでしかない戦いに逃げ出したかもしれないし、カミュ達の助けとなるように参加したかもしれない。
どうしたかなど示されなかった選択の答えは浮ばず、知らないままにあれたことがどれだけ幸運だったのだろうかと思う。
もちろん、知らないままにカミュやアイザックが一度亡くなっていたとか聞いた時には胸にくるものがあったが、彼らの遺体を見ることなく生き返って元気な姿しか私は知らないので聖戦の怖さを自覚はしていない。
「恨んでおらんのか?」
「何を恨むというのでしょうか」
怪しいと思うことなく聖域からの命令に従った。それが私にとっては好都合であったから、疑問など浮ぶこともなく。
「……」
教皇の視線に私は目線を下げる。私は死にたくない傷つきたくない。誰かを傷つけたくないし、殺したくない。
この本音を伝えてしまえば臆病者だと言われることだろう。それが怖くて何も言えない私はまさに臆病者で。
「私は何もしなかった人間です」
聖戦に参加できなくて安堵するような人間だ。
相手の様子をうかがうと難しい顔をしているのが見えるがこれ以上の会話はボロがでそうなので早々に立ち去ることにした。
「教皇、役目がありますので失礼させて頂きます」
頭を下げても特に何も言われなかったけれど居心地が悪くてその場を立ち去る。
許可なく去るとか褒められたことではないかもしれないけど、止められもしなかったので大丈夫だろう。
教皇シオン視点
気分転換として散歩に出たところでアテナの覚えめでたい白銀聖闘士、クレーターのが木にもたれて座っているのを見かけた。
何もせずとも汗ばむ今日の気温に木陰で涼んでもいるのかと思ったが彼は右腕を上げると手の先に水を集めた。何をするつもりなのかと見つめていると水は小さな鳥の姿となり空へと羽ばたいた。
「ほう」
短時間のうちに消えてしまったが目の前のようなことは小宇宙のコントロールに優れていないと出来ないことだ。
ヒーリングに優れているとされるだけはあると考えているとまたもその手に小鳥を作り出し、空へと飛ばせそれは消えることなく羽ばたいている。
しばらくしてまた小鳥を作り出し、空を飛び交う小鳥が三羽目となった頃にやっとこれは彼なりの鍛錬方法なのではないかと思い当たった。
聖闘士の鍛錬方法とは傍から見ていれば思わないが、彼がしていることは小宇宙のコントロールを必要としていることで操る小鳥が増えれば増えるほど難しくなるだろう。
空を飛ぶ三羽の水の小鳥はスレスレですれ違ったりと絶妙なコントロールで空を飛び交っているのだ。
「何をしている?」
「……休憩です」
いきなり声を掛けたというのに彼は驚いた様子なく視線を向けたあとに静かに答えた。
「休んでいるようには見えん」
小宇宙で作り出した水の小鳥を操るなどということをして、休憩しているなどと答えられるとは思わなんだ。
「そうですか?」
「小宇宙をそのような使い方をしておればな」
意外そうに首を傾げるその姿にため息をつきたくなった。ヒーリングが得意であるからと怪我をした者達の治療をしている彼だが本来は聖闘士となったものがすることではない。
青銅の小僧の治療を命じられたのだとしても、ヒーリング後に治療師達に混ざって他の患者にもヒーリングを施していると知ったのはこの者が来てから二週間も経った時だ。
治療師達は彼が聖闘士であると気づいておらず、治療師となるために来た新参者として小間使いのように使っていた。白銀聖闘士を小間使い扱いとはと知った時には呆れたものだ。
聖域外で過ごしていたがゆえ聖域においての聖闘士の立場というものを自覚していなかったがために起きたこととして治療師達を咎めはしなかったが、いまだ治療師めいたことは続けているという報告はあった。
「流石は水と氷の魔術師の弟子といったところか」
小鳥を操る様に彼の師であるカミュもまた小宇宙のコントロールは上手いと思い出して言えば戸惑ったような声。
「水と氷?」
「カミュのことだ。あやつは小宇宙を操ることが器用なものでな。お前がしているようなことも出来よう」
空を飛ぶ小鳥を指で示せば水の小鳥が指にとまった。冷たいその水の小鳥に僅かながら凍気がこめられているようだ。
そういえばこのあたりは涼しい。木陰だからというだけでなく彼が水の小鳥でこの辺りの気温を下げて過ごしやすくしていたらしい。
凍気について聞けばキグナスの候補生であったからと答えたが、視線を下げたことからキグナスとなれなかったことにわだかまりがあるようにみえる。
青銅聖闘士のキグナスではなく白銀聖闘士のクレーターの聖闘士となったのだとしても、目指したものが手に届かなかったことは悔しくもあるのだろう。
何処か子どもらしくないと感じていた彼の歳相応の態度に微笑ましく感じるのは意地の悪いことだろうか。
「サガのことをお前はどう思っている?」
彼の本音が少しばかり見えたことで気になっていたことを問いかける。
サガという男は真面目すぎてかつてのことを気に病みすぎている節があるが、恨まれて当然のことをしたのは事実であった。
そして、目の前にいる少年もまた聖闘士としての生き方を奪われた人間だ。恨んでいるとしてもおかしくはない。
サガが気にしているのだと言えば、先程見せていた表情を硬いものへと変え。
「……私のことは気にする必要などありませんと伝えていただけますか。日本に居ることを私が選んだのですから」
「恨んでおらんのか?」
自分が戦わないことを選んだのだと彼は告げるその声は落ち着いたもの。
「何を恨むというのでしょうか。私は何もしなかった人間です」
怒りのないその穏やかな瞳は彼のような年頃の者がするような瞳ではなかった。
笑みすら浮かべてみせた彼に何を言えばいいのかと戸惑うているうちに、はこれ以上の詮索をよしとしない拒絶の意を込めているのだろう瞳をこちらへと向けてから礼をし。
「教皇、役目がありますので失礼させて頂きます」
去っていくその背に視線を投げかけることしか出来ないままであった。
彼が怒りを他者へと転嫁出来る者であるのなら、サガを恨んだことだろう。サガもまたその怒りを受け止め償いもしよう。
それは双方にとって一つの折り合いのつく形であっただろうに彼はサガを恨んでないと言う。
彼は聖人ではない。キグナスの聖衣のことを話した時に一瞬、見せたあの暗い表情は彼が負の感情もある人間だと示していた。
サガを恨まないと言った彼の言葉は嘘ではないのだとしたら彼はきっと自らを責めているのだろう。
「……何とも不器用な」
少年のその背が見えなくなったところで呟いた。
底が何処にあるかもわからぬほどに深い小宇宙を持ちながら、あくまでもその感性は人というアンバランスな存在。
アテナもまた女神として自覚をしておられるが沙織という少女としての感性も持つ、あの少年をアテナが気にかけているのはそれもまた理由なのやもしれぬ。