忘却の声


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即位して五十年が過ぎたある日、訃報が届いた。
山積みとまでは言わないがそこそこある執務を片付けていた時に届いたその書簡に流麗な文字で書かれたその名は舒栄、私の中では家族として感じていた最後の一人が逝ってしまった。
七十に届かぬ歳であったが蓬莱と呼ばれる世界と違って医療が発展していないこの世界では長寿とされる歳だ。
栄養失調や医療をきちんと受けられたからこそ長生きをしたと言えるが、私からすればまだ早いと感じさせられる。
私の中に浮ぶのは若い頃のままの花麗の姿、万が一にでも偽王などという騒ぎになってほしくなくて関わらぬようにしてきた妹を最後に見たのは彼女の婚礼の日だ。華やかで艶やかな彼女が選ぶとは思わなかった幼馴染へと嫁いでいった。
その選択は間違っていなかったようで私が景女王となってから実家の商家の商売は上手くいったようで、今ではこの堯天に進出している。それは花麗の息子、つまりは私の甥の一人が任されていて売り上げは順調であるようだった。
ひ孫も去年、生まれたのだったかとぼんやりと思い出しながら、私は最後となる花麗についての報告が書かれた書簡を丸め、紐を結ぶ。
「……花麗」
久しぶりに発した名は震えていた。時折、届いた花麗からの書簡に返事を返すだけの素っ気無い私を彼女はどう感じていたのだろうか知る術はない。
仙籍に加えなかったのだから、私より先に逝くことを覚悟していたことではあったはずなのに誤魔化しきれない心の動揺に執務が手につかなくなる。
少しだけ、少しだけ休んだら王として振る舞おう。今はとしての心の痛みだけを感じていようと机のものはそのままにし、丸めた書簡だけを手に立ち上がる。
様」
執務室をでた所で運悪く出くわしたのは半世紀経っても、相変わらずに生真面目な我が半身。
「いかがなさいましたか?」
「少し気分が優れないから部屋で休もうかと思って……」
「ご気分が優れないのですか?」
妹の死をまだ受け入れてきれていないので後で話そうと休憩するとだけ伝えようとすれば怪訝そうな顔をした相手にため息がもれる。
王となるということは寿命がなくなるだけでなく身体も丈夫になるらしいので彼の態度も変ではない。王が病になるのは精神的なものが引き金でなることのほうが多いとされているのだ。
「少々、気落ちすることがあっただけ」
会話の間にも足を止めずに自室へと戻る。
「何かありましたか?」
正直なところ、花麗については私だけの気持ちであるからケーキに今の思いを伝える気はない。
「妹が亡くなった」
そのために部屋に入ったところで背を向けたままに言う。
「それは……ご愁傷様でございます」
慈悲の生き物たる麒麟であるからこその人の死への悲しみと同時に戸惑ったような声に私は乾いた声で笑い。
「意外?」
今まで家族をこの宮に招いたことは一度としてなく、便宜を王として図ったことすらなかった。
私だけが知る知識のために、王となるために此処に来てから私は一度として花麗と会ったことはない。
「いえ」
「そう」
私の問いに否定の言葉を返したケーキ、肯定でも否定でもどちらでもよかったのだから意地の悪い問いかけだ。
「一人にしてくれないかな。ケーキ」
「……わかりました」
戸が閉まり、遠ざかっていく気配を感じながら。
「冗祐、私は一人にしてくれと言ったんだ」
「ですが……」
「お願い」
影から聞こえてきた声に私は短く告げれば、姿を現した冗祐が目礼すると離れていく。肩の力を抜いて寝台へと仰向けで寝転び眼を瞑るが眠気など訪れるはずもない。
心が揺れながらも涙が零れることもないのは心の喪失感がそれだけ重いということなのか。それとも長く生きたために人としての心が枯れたのか。
様」
しばらく眼を瞑り過ごしていると扉が開く音が聞え、ためらう様に私の名をケーキが呼んだ。
「一人にしてくれって言ったんだけど?」
目を開けることもなく出て行ってもらうために冷たく言う。
扉は閉められたが続いて衣擦れと布が落ちたのだろう音と静かな室内に響く蹄の音。
「私は麒麟です。人ではありません」
目を開けて声のほうを見れば寝台の横に見覚えのある麒麟がいた。
「そういうことじゃない」
「貴方が私達は半身だと仰った。これからを共に生きていくのだと……」
何が言いたいのかとケーキのを見れば長いまつげに縁取られた瞳が伏せられ。
「ならば、悲しみもまた共にあるべきではありませんか」
「……」
国政において苦労も喜びも共に過ごしてきた。
粛清の場に麒麟である彼を伴わなくとも、その事実を私は隠すことなく告げていた。
それで彼が失道したのであれば私の行いの結果なのだろうと考えて。
「悲しみだけ隠すのは道理ではないとでも?」
「そのような意味で言っているのではありません」
人の姿であれば眉を顰めて言っただろう彼に引き攣るように笑い。
「わかってる。わかってるんだ。ケーキが私のことを思って言ってくれているのだって……」
様」
「でもね。私はそんな風にしてもらえる資格なんてない。花麗を遠ざけたのは私自身。王としての立場を強固にするために私は『家族』を国政から排除した」
花麗が偽王になると私の知識にあったのだとしても、私という存在がいるために本来の物語から大きく外れたのだと自覚している。
恋に狂って愛しい麒麟を失道させた愚かで一途な女王。それが私の役柄であると知っていたけどそんなものを私は放り捨てた。
「それはこの国と御家族のことをお考えに……」
「違う。私は家族を、花麗を信じられなかったから火種になりそうなものを最初から持ち込まなかっただけ」
私が流れを変えたことで本来は死後に偽王となる花麗が私を排除することになるかもしれない。
姉妹として過ごしてきた培ったはずの絆よりも、そんな妄想の可能性を恐れた。
「御家族を思ってのことでしょう。万が一が起きて処罰することのないようにするため、最悪を考えてそれを避けるためにお動きになられたのでしょう」
「それほど私は思慮深くないよ」
命を惜しんだ結果だ。家族と自分を量りにかけて自分をとるだろうことを証明したくなかっただけだ。
「貴方は臆病な方だ。御家族を失いたくないがために自ら手をお放しになられた」
「臆病ね。それに卑怯者でもある」
ケーキの言葉どおりであれば、私は結局は早々と家族を失っている愚か者だ。
けれど、それを否定できないのは私がそんな愚か者であったから。
「それが貴方だと仰るのなら私は構いません。貴方が景の王だ」
穏やかなその声に促がされるように先ほどは零れなかった涙が瞳から溢れてくる。
拭うことなく頬に流れるままに、ケーキへと手を伸ばすとその頬に触れる。
「……麒麟としての最大級の口説き言葉だね」
半身である麒麟がその手に擦り付けるように顔を寄せた。



様」
「んー?」
しばらくして脱いだ衣装を身にまとったケーキが私の名を呼んだ。
それに気のない返事をしたのは本気の落ち込んだ姿と泣くところを見られたから恥ずかしいというのもある。
「貴方は人でありたかったと仰られていた」
今更だと思う話をされてケーキへと視線を向ける。
「今もそう思ってるよ」
人であれたら王としての苦労など知らなかっただろうと思うのはないもの強請りだ。
そうと解っていても私は人として生きたかったという気持ちを今も捨てられない。女々しいな。本当。
「それゆえに御家族は人のままであって欲しかったのではありませんか?」
「……どうだろうね。忘れちゃった」
新たな家族は人として生きて逝った。長く生きるために仙となる方法を選べたはずなのに提示もしなかった。
王としての自分の弱みとされることが恐ろしかったのか、家族に自分自身の願いを託したのか。
理由がどちらであったとしても、身勝手で独りよがりな考えだった。それでも、同じ選択があったとしたら私は同じ答えを選ぶだろう。

――…姉さんはそういうところは頑固ね。

声が聞えた気がして、動きを止める。
「どうかなさいましか?」
不思議そうに見つめるケーキに首を振り。
「いいえ、何も……」
遠い記憶の底の忘れてしまったはずの声が響いただけだ。
かつて人であった頃に、どうして言われたのかを忘れてしまうような日常の一言。
それをほんの少し思い出したというだけの小さなことだった。





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