仮面
小宇宙を高めると自らが空気に溶けてしまったかのように意識が広がっていき、下手をすると自己を認識することすら出来なくなりそうなほどになる。
それでいて、自らの周囲のことを感じる感覚は鋭くなり肌に触れる風すらも感じ取ることすら出来た。まるで私が意識を飛ばしてしまいそうな代わりに誰かが周囲を警戒してくれているみたいに私自身は意識せずに出来ている。
頭上に鳥が飛び、はるか上には今は太陽の光でわからなくても星々を抱く宇宙があると感じるのは、小宇宙という不思議パワーのおかげだろう。
氷河が聖闘士となってからしばらくして、聖域に滞在することになったとカミュに言われた時にシベリアより暖かそうだと思ってお願いしてついてきたのは正解だ。
ここに来てから知り合ったアフロディーテから良いことを教えてもらったし、そのために私は小宇宙を高めることを日課としている。
聞いた内容は彼はカミュと同じく黄金聖闘士だけれど、特に何もない日も美容のために朝夕の最低二回は小宇宙を高めているということだった。
小宇宙を高めて身体を活性化させることで新陳代謝が上がり、身体の疲れも残らないし不純物も外に出るためにニキビできないとか素晴らしいことを教えてくれた彼には感謝である。
黄金聖闘士をはじめとして聖闘士達に綺麗な肌が多いのはそういう理由なのかと納得し、私も日に二回から三回高めるようにしていた。そのおかげか、かつてのような肉体的な修行はないのに身体の動きは変わらない。流石は不思議パワーだよね。
高めている小宇宙により感じた慣れ親しんだ者の気配に目を開ける。
十二宮の一つ宝瓶宮の主であるカミュの帰宅を感じて小宇宙を静め、立ち上がると出迎えのために玄関へと急ぎ。
「カミュ、おかえりなさい」
アテナの護衛として数日、聖域を離れていた彼に声をかける。
「ああ、今戻った」
口の端をわずかに上げるだけの笑みを浮かべたカミュ。相変わらず綺麗な顔立ちだとふっとした拍子に思う。
師弟という関係でなければ、微笑むカミュに惚れたとしてもおかしくなかろうか?
女性になったとは言っても元は男だと考えているカミュ達が私をそういう対象に見ることはないとわかってるので惚れないけど。
「変わりはありませんでしたか?」
数日しか離れていなかったのだから特に変わりはなかっただろうと思いつつ聞けば、カミュが頷くのが見えた。
「それなら良かった」
「私が居ない間に何か変わったことは?」
「ありません」
カミュがいない間は上の双魚宮の主であり、私に小宇宙美容法を伝授してくれたアフロディーテが夕食に招いてくれた。
人が近くに居ると就寝時に心休まらないらしい彼には従者がいないので彼の手作りだ。ハーブやら野菜やらが多いヘルシーなものだった。
美容の話を聞いてくれる人が聖域にはいないようで、彼は話の合う私のことを気に入ってくれているらしい。
聖闘士となるための修行をやめ、カミュの好意で従者としてもらった私に黄金聖闘士が友人として接してくれるのは光栄なことなのだと聖域の人に聞いた。
私からするとちょっとついていけない感覚だけど聖域事情ということで、アフロディーテには親しき仲にも礼儀あり精神で接してはいるが、彼はこの身体が元男だと知らず、元候補生で従者になったとだけしか知らないので二人きりの時はカミュ達と居るよりも女っぽくても怪訝そうに思われないので楽だ。
下手な女性より色気がある美人だし、美容の話とか聞いてると女友達的な感じである意味ではカミュ達とは違った親しみが湧く。
「お茶でも淹れましょうか?」
「ああ」
任務から戻ったのだから一休みしたいのだろう。お茶の準備のためにキッチンへと向かうためにカミュに背を向けると。
「」
「はい?」
名を呼ばれたので振り返れば珍しくもカミュの視線がこちらを見ていなかった。
何を言う気なのだろうと気になって身体ごとカミュのほうを向く。
「……いや、紅茶を頼む」
「わかりました」
近頃はアフロディーテにもらったハーブティーを淹れることが多かったので、紅茶が飲みたかったのかとは思いつつもこんなことで視線を向けないのを疑問に思う。
こんなことだからこそ、常にクールに振る舞うカミュからすると言うのが恥ずかしかったりするとか? よくわからないと思いつつ、止めていた足を動かす。
紅茶であれば聖域を散歩をしていると時々会うことがある美少女な沙織ちゃんにもらった美味しい紅茶の葉がある。
実は超高級品だったりするんじゃなかろうかと思うが、聖闘士ではないと言っていた彼女が持ってるのはおかしいので彼女に恋する人とかからの贈物だったりするのかも。
そうだとしたら私が分けてもらったのは悪いかもしれない。沙織ちゃん、天然な感じだし今度会った時には紅茶の葉の出処をきいてみるのもいいかも?
カミュ視点
アテナの護衛の任が終わり聖域に戻り、次の護衛であるシャカへと引き継ぐ。
私とシャカであれば、それは何もなければ形ばかりのものでしかなかったのだが……
「君の従者は何故、聖闘士とならなかった?」
普段どおりに護衛の任の間に起きたこと、気になったことを喋っていたのだがシャカが唐突に話題を変えた。
視線を向けても目を閉じているので表情は読み辛いが、珍しくシャカは興味から尋ねてきたようだった。
興味からだとしても今まで特にと交流のなかったはずのシャカからの問いかけに疑問に思い問う。
「いきなり何だ?シャカ」
「才覚ある者だからだが?」
「君がそのようなことを言うとは思わなかった」
ごく当たり前のことのように答えられて意外だったのは、シャカという男が直接確かめたはずではないのにのことを認めていたからだ。
師である私自身はの才能の高さは知っているし、性別が変わるということがなければ白鳥座ではない聖衣への試練へと推薦しただろう。
が男のままであったのならば、私が用意した仮面を見た時の反応を知ることもなかった。
私が差し出した仮面を怪訝そうに見るに、仮面をつける理由を告げた時に辛そうに唇を噛み俯いた姿を私は忘れられない。
今の自分を否定できないと言って、聖闘士となることをやめるという選択をしたを受け入れてやるだけがその時の私に出来ることだった。
「君は私を何だと思っている。エイトセンシズに目覚めそうな者の才を感じぬほど愚鈍ではない」
思っても見なかった言葉にシャカの様子を伺うが、いつもと変わりない目を瞑り涼しげな顔をしている。
「……エイトセンシズ?まさか」
「まさかっとは私の言葉を疑うのかね?」
「いや、そういうことではない。は修行をやめてから二年近い」
不機嫌そうにシャカが言うので首を振り、が本格的な修行をしばらくしていないからだと説明する。
「そう私も聞いた覚えがあるゆえに、何故と訊ねたのだが?」
聖域についてから自主的な鍛錬をしているようなのは知ってはいたが、私が近づけば従者としての振る舞いを優先するためにの実力を把握しているとは言い難いかもしれない。
シャカの言葉どおりにエイトセンシズに目覚めようとしているのであれば、の身に二年の間に何があった?
「……」
「その様子では知らぬようだな」
「に才能があるのは知っていた」
弟子の実力を認識していなかったことを、師として責められたように感じて思わず漏れた言葉。
「女の身であるから候補生から外れたのであれば勿体無いことだ」
私が早くから弟子をとっていたのは白鳥座の聖衣を預かっていたからだと知っているシャカの言葉に頷くことは出来ない。
白鳥座の聖衣に相応しいのはアイザックか氷河だと早いうちから判断したのは私自身ではあったが、実力の高さから他の聖衣に選ばれる可能性はあると確信にも似た思いを抱いていたし、そのために継承者のいない聖衣についても調べていた。
アイザックがあのようなことにならなければ、白鳥座の聖闘士が決まった後に聖闘士になれなかった者に他の試練を受けられるように聖域に話を通す予定だったのだ。
「仮面をは受け取らなかった」
「ふむ。それもまた当然か」
聖闘士の掟を従えなかったと告げれば批判することもなくシャカは頷いた。
「どういう意味だ?」
「あの者の小宇宙は女性的なものだ。女であることを捨てれば高みには昇れぬと本能で知っていたのやも知れん」
「いや、それは……」
元は男であったのに女性的な小宇宙とはどういうことかと問いたいが、性別が変わったことを知るのはアテナ、シオン、サガのみで問うことなどできない。
好奇の目にさらしたくはなかったからだが、黄金聖闘士には話を通しておいたほうがよかっただろうか? いや、幾人かはに不必要な接触をして傷つけただろうと予測できる。
「私は任につく。あまり遅くなってはあの方に悪い」
「ああ、わかった……シャカ」
「何だね?」
任務につこうとする相手を呼び止めるのもどうかとは思うが、これだけは言っておきたい。
「のことは私に任せてほしい」
「……元より私の弟子ではない」
去り行く相手から視線を逸らし、シャカから聞いた言葉の意味を考える。
エイトセンシズ、女性的な小宇宙、そして日々の鍛錬を欠かさない。
聖闘士となることを諦めたのであれば鍛錬を毎日するのだろうか…――
「まさか」
諦めていないのか? その実力で女となっても仮面をつけぬことを認めさせようとしているのだとしたら。
「私はお前の願いを踏みにじったのか?」
仮面をつけるのであれば聖闘士となれないと告げたを従者とした。
それは、性別が変わってしまったの支えとなれるよう傍に置くことを選んだからだというのに。
混乱する思考のままに急ぎ宝瓶宮へと戻る。その途中で感じるの高められた小宇宙、また修行をしていたのだろう。
なのに、私が宝瓶宮へと近づけばは小宇宙を静めて修行をやめてしまった。
シベリアで弟子であった頃のであれば、逆に小宇宙を高めようとしたものだったのに……
師であるはずの自分が弟子の成長を妨げたのかと愕然とし、玄関に入ったところで足を止めてしまった。
「カミュ、おかえりなさい」
笑みを浮かべて私を迎えてくれるに陰りはないように思うが、それが私の願望からではないと言えはしない。
「……ああ、今戻った」
心配をかけぬように言葉を返し、変わりはなかったかと問うへと不自然にならないように頷く。
従者として主人である私のために行動しようとする様子に、思わず声をかけたが問いかけるべき言葉は見つからない。
私のこの態度を妙に思わなければいいと願いながら、の姿が見えなくなってから右手で顔をおおう。
「」
弟子達を誇りに思っている。親が子を思うような無条件の庇護を伴うものではなかったとしても、弟子達のために道を示したかった。
私という師を誇ってほしくて、聖闘士として正しくあろうといっそう気を引き締めて……その意思は今も変わらない。そのはずであるというのに私はの師であるという自信がもてない。
氷河が白鳥座の聖闘士となった時にシベリアを任せ、聖域に来た私についてきたのは聖闘士の候補生達が最も数多く修行しているところだったのだとしたら?
任務を終え報告をした時よりも、宝瓶宮に戻りが迎えてくれた時に任務を無事に終えたのだと実感できた。
最初は必ず誰かが待っていてくれるということが嬉しかった。それは個人というよりも親しい者に対しての感情で、氷河やアイザックが出迎えてくれたとしても同じように感じただろう。
その思いが変化したのはいつだったのかはわからない。きっと少しずつ降り積もっていったのだろう。
もっと早く気づいていれば気のせいだと誤魔化せもしたのかもしれないが、この想いに当てはまる言葉を自覚してしまえばそれはひどく困難なことだった。
死より蘇った私を見て泣きながら笑って出迎えてくれたを思わず抱き締めた時に気がついた。私の中でいつのまにか育ててしまっていた想い。
「私は……」
師が弟子に向けるようなものではない。そうだと知っているからこそ誰にも知られぬように封じ込めたもの。
隠そうとするあまりに自身を見ず、その願いを踏みにじっていないと言うことは出来ない。
「それでもお前を手放したくはない」
人は善だけの存在ではなく、悪もまた内包させているのだということを明確に自覚させたのは男としての本能。
私だけのものにしたいなどと浅ましく思う気持ちにフタをし、固く固く閉めて決して出てこないように閉じ込め。
「私の醜さに気づいてくれるな。」
が求めるのは師としての私だと己に言い聞かせ仮面をかぶろう…――